TOP > 千家十職 > 土田 友湖
代 |
名/生没享年 |
初代 |
土田 友湖 [不染斎] ~つちだ・ゆうこ~ [さい]
元禄四年(1691年) ― 明和二年(1765年) 二月 / 七十四歳 |
二代 |
土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
享保十七年(1732年) ― 宝暦七年(1757年) 七月 / 二十六歳 |
三代 |
土田 半四郎 [一得斎] ~つちだ・はんしろう~ [いっとくさい]
延享三年(1746年) ― 天明四年(1784年) 四月 / 三十八歳 |
四代 |
土田 鶴寿院貞松 ~つちだ・かくじゅいんていしょう~
享保四年(1719年) ― 享和元年(1801年) 十月 / 八十二歳 |
五代 |
土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
安永七年(1778年) ― 文政八年(1825年) 十月 / 四十七歳 |
六代 |
土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
享和三年(1803年) ― 明治十六年(1883年) 十一月 / 八十歳 |
七代 |
土田 半四郎 [聴雪] ~つちだ・はんしろう~ [ちょうせつ]
天保六年(1835年) ― 明治四十四年(1911年) 三月 / 七十六歳 |
八代 |
土田 仙之助 [淡雪] ~つちだ・せんのすけ~ [たんせつ]
文久二年(1862年) ― 明治四十四年(1911年) 四月 / 四十七歳 |
九代 |
土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
明治二十五年(1892年) ― 大正三年(1914年) 十二月 / 二十二歳 |
十代 |
土田 浄雪院妙要 ~つちだ・じょせついんみょうみよう~
万延元年(1860年) ― 昭和十五年(1940年) 二月 / 八十一歳 |
十一代 |
土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
明治三十五年(1902年) ― 昭和四十年(1965年) 三月 / 六十三歳 |
[当代] 十二代 |
土田 友湖 ~つちだ・ゆうこ~
|

三千家御用達の【袋師】として、「仕覆」や「帛紗」、「袋物」の仕立てなどを行う【職家】。
【土田家】の祖先は《江州/蒲生郡土田村》出身の侍『土田七大夫』で後に『初代彦根藩主/井伊兵部大輔直政(1561-1602)』に仕官し鉄砲組頭を代々務めた家柄と伝えられる。
【土田家初代/土田友湖】は本来跡取りであったが、実母が早くに亡くなり、継母の子『籐兵衛』に家督を譲り武士を廃業。
自身は京に出て【越後屋半兵衛】と名乗り、商人となり《上京》に住み西陣の仲買人をしていたが生来の器用さを生かし近隣に住む『二代/亀岡二得(生没享年不詳)』の子『亀岡宗理(生年没不詳)』のもとへ熱心に通い袋物の技術を習得、奥義秘伝一切を伝えられたという。
『初代/亀岡二得(生没享年不詳)』は《春日大社》の「田楽法師」で《京都/上京》に住み、「茶入袋(仕服)」やその他の「袋物」の名手で『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』や『細川三斎(1563-1646)』に可愛がられ袋物を仕立てていた。
また『初代/亀岡二得(生没享年不詳)』の子『二代/亀岡二得(生没享年不詳)』は茶道に大変熱心で『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』より【飯後軒】の軒号を授かり、茶席に『飯後の額』をかけ飯後の茶事を楽しんだという。
『二代/亀岡二得(生没享年不詳)』の子『亀岡宗理(生没享年不詳)』も茶道に熱心で『伊勢九居城主/籐堂家』の茶頭となり、【飯後の額】も含め家業のすべてを弟子の【土田家初代/土田友湖】に譲ったため【土田家初代/土田友湖】は仲買人を辞め【袋師】となる。
【土田家】では【土田家五代/土田友湖】までは「茶入袋(仕服)」を生業としたが、以降は茶道具の「帛紗」、「角帯」などをはじめ茶道の使用する「裂」、「繊維関係」の制作を行う。
【土田家】では二代目以降、当主の通称は【半四郎】であり隠居して剃髪すると【友湖】を名乗る。
- 土田家初代 土田 友湖 ~つちだ・ゆうこ~ [号] 不染斎
- 貞享四年(1687年) ― 明和二年(1765年) 五月 / 七十七歳
- 出自
-
『[息子]土田家二代/土田友湖』の父
『[甥]土田家三代/土田友湖』の叔父
『[娘]土田家四代/土田友湖』の父
- 名
-
[名]【土田七太夫】【越後屋半兵衛】
[通称]【半平】【勘平】
- 師事
-
『亀岡宗理(生年没不詳)』
- 事績
- 【土田家】の祖先は《近江国/蒲生郡土田村》出身の侍で後に『初代彦根藩主/井伊兵部大輔直政(1561-1602)』に仕官し鉄砲組頭を代々務めた家柄と伝えられる。
【土田家初代/土田友湖(半平)】は本来跡取りであったが、実母が早くに亡くなり、継母の子『籐兵衛』に家督を譲り武士を廃業。
自身は京に出て【越後屋半兵衛】と名乗り、商人となり《上京》に住み西陣の仲買をしていたが生来の器用さを生かし近隣に住む『二代/亀岡二得(生没享年不詳)』の子『亀岡宗理(生年没不詳)』のもとへ熱心に通い袋物の技術を習得、奥義秘伝一切を伝えられたという。
その後『亀岡宗理(生年没不詳)』は『伊勢九居城主/籐堂家』の茶頭となり【飯後の額】も含め家業のすべてを【土田家初代/土田友湖】に譲り、【土田家初代/土田友湖(半平)】は『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の引き立てにより千家の【袋師】となる。
- 号
- 【土田家初代/土田友湖】は『中村家三代/中村宗哲(1699-1776)』と共に『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』と「俳諧」の交わりが深く、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』が《大津/石山寺》参拝の際、供をして琵琶湖上に船を浮かべ観月の遊びをしたその夜に船中で剃髪をし、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』より【友湖】の号を賜わる。
さらに『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』は《石山》の竹で茶杓を削り「石山」と銘を付けた茶杓を記念に贈っている。
またその時に【土田家初代/土田友湖(半平)】は
◆ 袋縫ふ 友湖は船の かこ(水夫) なるや 今日よりあすの 風をおそれて ◆
と句を詠み残している。
- 軒号
- 【土田家初代/土田友湖】は『二代/亀岡二得(生没享年不詳)』より【飯後軒】の軒号を授かり、自身も茶席に【飯後の額】をかけ「飯後の茶事」を楽しんだという。
また【飯後軒】の「口切の茶事」に来られた『裏千家八代/又玄斎一燈宗室 (1719-1771)』より
◆ 口切や 松葉もなしに 飯後軒 一燈 ◆
の句をもらっている。
- 辞世の句
- 【土田家初代/土田友湖(半平)】は「辞世の句」として
◆ 仏元不滅 我亦常住 法身妙体 是妙法蓮花経 七十七歳 不染斎 ◆
の句を残している。
- 享年
- 明和二年(1765年) 五月没。享年七十七歳。
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- 土田家二代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
- 享保十七年(1732年) ― 宝暦七年(1757年) 七月 / 二十六歳
- 出自
- 『[父]土田家初代/土田友湖』の子
『[養子]土田家二代/土田友湖』の養父
『[姉]土田家二代/土田友湖』の弟
- 名
-
[通称]【半四郎】
[法号]【了圓】
- 事績
-
【土田家】の初代であり父の『[父]土田家初代/土田友湖』在世中に若くしてこの世を去る。
- 享年
-
宝暦七年(1757年) 七月没。享年二十六歳。
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- 土田家三代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~ [号] 一得斎・友甫
- 延享三年(1746年) ― 天明四年(1784年) 四月 / 三十八歳
- 出自
-
『[父]丁字屋嘉兵衛』の長男
『[叔父]土田家初代/土田友湖』の甥
『[養父]土田家二代/土田友湖』の養子
『[長男]土田家五代/土田友湖』の父
- 名
-
[通称]【半四郎】
- 事績
-
【一得斎】の号は『袋師/亀岡二得(生年没不詳)』の名に因み『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』より賜る。
養父である先代の『[養父]土田家二代/土田友湖』に続き自身も三十八歳の若さで亡くなる。
- 享年
- 天明四年(1784年) 四月没。享年三十八歳。
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- 土田家四代 土田 鶴寿院貞松 ~つちだ・かくじゅいんていしょう~
- 享保四年(1719年) ― 享和元年(1801年) 十月 / 八十二歳
- 出自
-
『[父]土田家初代/土田友湖』の子
『[弟]土田家二代/土田友湖』の姉
『[甥]土田家五代/土田友湖』の叔母
- 名
-
[名]【くに】
[法名]【鶴寿院貞松】
- 事績
-
先々代『[弟]土田家二代/土田友湖』、先代『土田家三代/土田友湖』共に早世。
先代の『[従弟]土田家三代/土田友湖』の長男『半四郎(のちの土田家五代/土田友湖)』はまだ六歳と幼少のため『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』の計らいで『[弟]土田家二代/土田友湖』の姉【くに】が【土田家】の家業を継承し【土田家四代/土田友湖】を継ぐ。
その後天明八年(1788年)の「天明の大火」で家屋を全焼するが『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』の取り立てにより屋敷を再建する。
- 享年
- 享和元年(1801年) 十月没。享年八十二歳。
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- 土田家五代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~ [号] 伸定・蓮乗
- 安永七年(1778年) ― 文政八年(1825年) 十月 / 四十七歳
- 出自
-
『[父]土田家三代/土田友湖』の長男
『[叔母]土田家四代/土田友湖』の甥
『[子]土田家六代/土田友湖』の父
- 名
-
[通称]【半四郎】
- 事績
-
【半四郎】が二十歳の時、先代『土田家四代/土田友湖』が亡くなり【土田家】の家督を継承し【土田家五代/土田友湖】を継ぐ。
『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』の引き立てを受け、それまでは「茶入袋」だけの仕立てであったが、古くから帛紗を扱う『室町/一文字屋三右衛門(生年没不詳)』や『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』の時代からの『笹屋勘右衛門(生年没不詳)』などの家が絶えたため「帛紗」も扱うようになった。
- 享年
- 文政八年(1825年)10月没。享年四十七歳。
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- 土田家六代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
- 享和三年(1803年) ― 明治十六年(1883年) 十一月 / 八十歳
- 出自
-
『[父]土田家五代/土田友湖』の子
- 名
-
[通称]【半四郎】
- 事績
-
【土田家六代/土田友湖】は書画に長け、後世に伝えるため、家系秘伝書を書き「古代裂地文様」や「図譜」などを書き写したが、還暦の元治元年(1864年)の年に起きた「蛤御門の変」に遭遇。
【土田家】においては天明八年(1788年)に起こった「天明大火」につづき再び家屋が全焼、過去の資料共々焼失する事となる。
その後しばらくは焼跡に仮住まいしていたが、明治初年になり再建。
また
◆ 花紅葉 常盤に見えて 唐錦 いく春秋を ここに経ぬらん ◆
と詠んだ句を残している。
- 享年
- 明治十六年(1883年) 十一月没。享年八十二歳。
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- 土田家七代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~ [号] 聴雪
- 天保六年(1835年) ― 明治四十四年(1911年) 三月 / 七十六歳
- 出自
-
『西垣家』の出身
『土田家』の養子
- 名
-
[通称]【半四郎】
- 事績
-
【土田家七代/土田友湖】は『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』や『楽家十一代/楽慶入(1817-1902)』などと交流があり明治八年(1875年)には数寄者である『長州萩毛利藩/御用商人/六代目熊谷五一義右(生没享年不詳)』に招かれて三ヶ月ほど『熊谷家』に滞在。
その間『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』は茶事の指導をし、『楽家十一代/楽慶入(1817-1902)』は萩の土で焼物を焼いた。
また【土田家七代/土田友湖】の弟である『湖流』も『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』のお供で《萩》を訪れている。
『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』、『楽家十一代/楽慶入(1817-1902)』、【土田家七代/土田友湖】の三人は明治茶道の衰退期の苦労を共にした同年代の朋友である。
- 享年
- 明治四十四年(1911年)三月没。享年七十六歳。
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- 土田家八代 土田 仙之助 ~つちだ・せんのすけ~ [号] 淡雪
- 文久二年(1862年) ― 明治四十四年(1911年) 四月 / 四十七歳
- 出自
-
『[養父]土田家七代/土田友湖』の長女『阿さ(のちの土田家十代/土田友湖浄雪院妙要)』の婿養子。
『[次男]土田家十代/土田友湖』の父
『[三男]土田家十一五代/土田友湖』の父
- 名
-
[通称]【仙之助】
- 事績
-
先代である『[養父]土田家七代/土田友湖』と同様に『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』や『楽家十一代/楽慶入(1817-1902)』と親交がある。
『[養父]土田家七代/土田友湖』を亡くした一ヶ月後の明治四十四年(1911年) 四月に自身も没す。
- 享年
- 明治四十四年(1911年) 四月没。享年五十歳。
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- 土田家九代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
- 明治二十五年(1892年) ― 大正三年(1914年) 十二月 / 二十二歳
- 出自
-
『[父]土田家八代/土田友湖』の次男
『[母]土田家十代/浄雪院妙要』の次男
『[三男]土田家九代/土田友湖』の兄
- 名
-
[幼名]【安次郎】
[通称]【半四郎】
- 事績
-
『[父]土田家八代/土田友湖』と『[母]土田家十代/浄雪院妙要』の長男は天折しており次男である【安次郎】が【土田家九代/土田友湖】を継いだが自身も大正三年(1914年)、二十二歳の若さで早世。
- 享年
- 大正三年(1914年) 十二月没。享年二十二歳。
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- 土田家十代 土田 浄雪院妙要 ~つちだ・じょせついんみょうみよう~
- 万延元年(1860年) ― 昭和十五年(1940年) 二月 / 八十一歳
- 出自
-
『[父]土田家七代/土田友湖』の長女
『[夫]土田家八代/土田友湖』の室
『[次男]土田家十代/土田友湖』の母
『[三男]土田家十一代/土田友湖』の母
- 名
-
[通称]【阿さ】
[法名]【浄雪院妙要】
- 事績
-
先々代であり夫の『[夫]土田家八代/土田友湖』、次男の『[次男]土田家九代/土田友湖』が共に早世し、三男『良三(のちの土田家十一代/土田友湖)』は『[次男]土田家九代/土田友湖』が亡くなった時はまだ十一歳であったため、再び『土田家三代/土田友湖』の歿後と同じように【土田家】の家業断絶の危機を迎えたが『土田家四代/土田友湖』同様、【阿さ】自身が【土田家十代/土田友湖】を継ぎ、【土田家】の家業を助け三男『良三(のちの土田家十一代/土田友湖)』の成長を楽しみに家業を支える。
- 享年
- 昭和十五年(1940年) 二月没。享年八十一歳。
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- 土田家十一代 土田 半四郎 ~つちだ・はんしろう~
- 明治三十五年(1902年) ― 昭和四十年(1965年) 三月 / 六十三歳
- 出自
-
『[父]土田家八代/土田友湖』の三男
『[母]土田家十代/浄雪院妙要』の三男
『[次男]土田家九代/土田友湖』の弟
『[次男]土田家十二代/土田友湖』の父
- 名
-
[幼名]【良三】
[通称]【半四郎】
- 事績
-
昭和十五年(1940年)、先代である『[母]土田家十代/浄雪院妙要』が亡くなったため三十七歳で【土田家】の家督を継承し『土田家十一代/土田友湖』を襲名。
『土田家十一代/土田友湖』は昭和の不況期に続き「満州事変」や「太平洋戦争」などの長い戦争の時を生き幾度も召集を受け不遇の時代を過ごす事となる。
終戦後、ようやく「茶道」復活の兆しが出始めた昭和二十九年(1954年)に病に倒れ、以後十数年は入退院を繰り返し、病と闘いながらの生活であった。
晩年はゆっくりと仕事をこなしながら次代『土田家十二代/土田友湖』となる次男『陽三』に家業を伝えた。
- 享年
- 昭和四十年(1965年) 三月没。享年六十三歳。
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- 土田家十二代 [当代] 土田 友湖 ~つちだ・ゆうこ~
- 昭和十四年(1939年) 十月三十一日 ― 年(年) / 歳
- 出自
-
『[父]土田家十一代/土田友湖』の次男
- 名
-
[名]【陽三】
- 事績
- 昭和二十九年(1954年)、先代の『[父]土田家十一代/土田友湖』が体調不良により寝込みがちになったため自身は、中学を卒業と同時に『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』元へ「玄関」として通いながら学校へも通学する少年時代を過ごすこととなる。
(※玄関=表千家では家元の内弟子に与えられる称号)。
そうして茶の湯の雰囲気に触れることにより家業への理解を深めていたが昭和三十五年(1960年)にはの家業を継ぐ事を前提に先代『[父]土田家十一代/土田友湖』と仕事に向かい合い【職家】として家元へ出仕することとなった。
その五年後の昭和四十年(1965年)三月に先代『[父]土田家十一代/土田友湖』が他界。
同年、【土田家】の家督を継承し『土田家十二代/土田友湖』を襲名。
- 出仕
-
昭和三十五年(1960年)、『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』の要請により【土田家十二代/土田友湖】をはじめ他の【職家】より『黒田家十三代/黒田正玄(1936-207)』・『大西家十五代/大西浄心(1924-2002)』・『飛来家十五代/飛来一閑(1926-1981)』・『奥村家十二代/奥村吉兵衛(1934-)』と共に五人揃って出仕する事となる。
- 享年
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