TOP > 千家十職 > 大西 清右衛門
代 |
名/生没享年 |
初代 |
大西 浄林 ~おおにし・じょうりん~
天正十八年(1590年) ― 寛文三年(1663年) / 七十三歳 |
二代 |
大西 浄清 ~おおにし・じょうせい~
文禄三年(1594年) ― 天和二年(1682年) / 八十八歳 |
三代 |
大西 浄玄 ~おおにし・じょうげん~
寛永七年(1630年) ― 貞亨元年(1684年) / 五十四歳 |
四代 |
大西 浄頓 ~おおにし・じょうとん~
天保二年(1645年) ― 元禄十三年(1700年) / 五十五歳 |
五代 |
大西 浄入 ~おおにし・じょうにゅう~
天保四年(1647年) ― 正徳六年(1716年) / 六十九歳 |
六代 |
大西 浄元 ~おおにし・じょうげん~
元禄二年(1689年) ― 宝暦十二年(1762年) / 七十三歳 |
七代 |
大西 浄玄 ~おおにし・じょうげん~
享保五年(1720年) ― 天明三年(1783年) / 六十三歳 |
八代 |
大西 浄本 ~おおにし・じょうほん~
延享四年(1747年) ― 天明五年(1785年) / 三十八歳 |
九代 |
大西 浄元 ~おおにし・じょうげん~
寛延二年(1749年) ― 文化八年(1811年) / 六十二歳 |
十代 |
大西 浄雪 ~おおにし・じょうせつ~
安永六年(1777年) ― 嘉永五年(1852年) / 七十五歳 |
十一代 |
大西 浄寿 ~おおにし・じょうじゅ~
文化五年(1808年) ― 明治八年(1875年) / 六十七歳 |
十二代 |
大西 浄典 ~おおにし・じょうてん~
天保十二年(1841年) ― 明治二年(1869年) / 二十八歳 |
十三代 |
大西 浄長 ~おおにし・じょうちょう~
慶応二年(1866 年) ― 昭和十八年(1943年) / 七十七歳 |
十四代 |
大西 浄中 ~おおにし・じょうちゅう~
明治二十一年(1888年) ― 昭和三十五年(1960年) / 七十二歳 |
十五代 |
大西 浄心 ~おおにし・じょうしん~
大正十三年(1924 年) ― 平成十四年(2002年) / 七十八歳 |
[当代] 十六代 |
大西 清右衛門 ~おおにし・せいうえもん~
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三千家御用達の【釜師】として、室町時代後期から四百以上続く【京釜師】の【職家】。
【大西家】の家祖は《山城国/南山城広瀬村》の出身で当初は【広瀬】姓を名乗っていた。
またその地は現在の《京都府南山城村大字田山小字広瀬》にあたり府下では唯一の村で、《京都府》と《滋賀県》、《三重県》、《奈良県》の三県境に位置している。
【大西家】は、【大西家初代/大西浄林】が二人の弟達と京へ上洛し、《三条釜座》の座人になったのが始まりである。
【大西家】では【大西家四代/大西浄頓】以降【大西家九代/大西浄元】を除き【大西家】の当主は【清右衛門】の名を継ぐ。
現在、《京都市中京区三条釜座》に工房があり、【大西清右衛門美術館】も併設されている。
- 大西家初代 大西 浄林 ~おおにし・じょうりん~
- 天正十八年(1590年) ― 寛文三年(1663年) / 七十三歳
- 出自
-
《山城国/広瀬村》の人
- 名
-
[性]【広瀬】【大西】
[名]【五郎左衛門】
[通称]【仁兵衛】
[号]【浄林】
- 門下
-
『大西浄清』
『大西浄久』
- 事績
-
【大西家初代/大西浄林】は《三条釜座》の「座人」となり《山城国/広瀬村》の出身であることから最初は【広瀬】性を名乗り、後に【大西】性に改性。
【大西家初代/大西浄林】が新しく一家を興し一派を立てるには多大な力があったものと推測できる。
- 作風
-
それまでの京作の伝統とは全く異なる立場から、当時の「草庵風」に対して「武家」、「書院」、「広間」向きの独自の作風を確立。
釜の形も、京作の伝統である「丸釜」、「尾張釜」、「阿弥陀堂釜」などはあまりみられず、独自の装飾的な地紋のあるものが多く、毛切の釜も多く作る。また蕨など様々な形の環付きの釜を製作している。
- 享年
-
寛文三年(1663年) / 七十三歳。
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- 大西家二代 大西 浄清 ~おおにし・じょうせい~
- 文禄三年(1594年) ― 天和二年(1682年) / 八十八歳
- 出自
-
『[兄]大西家初代/大西浄林』の弟
『[弟]大西浄久』の兄
『[次男]大西定林』の父
- 名
-
[名]【村長】
[通称]【五郎左衛門】
[号]【浄清】
- 師事
-
『[兄]大西家初代/大西浄林』
- 門下
-
『初代/宮崎寒雉』
- 事績
-
『[兄]大西家初代/大西浄林』の弟で『古田織部(1544-1615)』、『織田有楽斎(1548-1622)』の【釜師】をつとめ、また『小堀遠州(1579-1647)』の「好み」の釜も多く作り、初期の【大西家】の作風を確立。
当代随一の名工といわれ【大西家】歴代中第一の名人として知られる。
後年、次男『大西定林(?-1727)』とともに『古田織部(1544-1615)』、『小堀遠州(1579-1647)』、『片桐石州(1605-1673)』に従って江戸に下り、次男『大西定林(?-1727)』は江戸にとどまり『江戸大西家』を打ち立て、以降【大西家】は【江戸】と【京都】に分かれて釜作を行う。
- 作風
-
炉に入れて使用することをよく考え斜め上から釜を見るという観点に立って出来た形の釜が多く、独特の地肌を呈し形の凝ったものや地紋のある装飾的な作品を数多く残している。
また江戸時代前期の『絵師/狩野探幽(1602-1674)』の下絵を用いその「落款」入りの釜も見受みられます。
- 『[弟]大西浄久()』
-
【大西家二代/大西浄清】の弟『大西浄久()』も名手として知られ、その作風は【大西家二代/大西浄清】と同様いわゆる「きれいさび」の釜で、薄作で地紋ある釜を多く製作。
【大西家二代/大西浄清】に比較するとやや固い感じのする釜を残している。
- 享年
-
天和二年(1682年)没。享年八十八歳。
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- 大西家三代 大西 浄玄 ~おおにし・じょうげん~
- 寛永七年(1630年) ― 貞亨元年(1684年) / 五十四歳
- 出自
-
『[父]大西家二代/大西浄清』の長男
『[叔父]大西家初代/大西浄林』の甥
- 名
-
[通称]【仁兵衛】
[号]【浄玄】
- 師事
-
『[父]大西家二代/大西浄清』
- 作風
-
『[叔父]大西家初代/大西浄林』、『[父]大西家二代/大西浄清』の作風が受け継がれ、釜肌の研究をつみ、文字などを鋳込み枯淡味のある釜を作る。
やや厚みがあり光沢のある書院風のものが製作されたが釜作は少ない。
- 享年
-
貞亨元年(1684年)没。享年五十四歳。
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- 大西家四代 大西 浄頓 ~おおにし・じょうとん~
- 天保二年(1645年) ― 元禄十三年(1700年) / 五十五歳
- 出自
-
『[父]大西家三代/大西浄玄』の長男
- 名
-
[名]【清右衛門】
[号]【浄頓】
- 師事
-
『[父]大西家三代/大西浄玄』
- 事績
-
『[父]大西家三代/大西浄玄』と同様に釜作は少ない。
- 作風
-
『大西家初代/大西浄林』、『大西家二代/大西浄清』風の【大西家】初期の伝統の作風を受け継ぎ書院風の広間向きの釜が多く、「きれいさび」という模様のある釜を製作。
- 享年
-
元禄十三年(1700年)没。享年五十五歳。
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- 大西家五代 大西 浄入 ~おおにし・じょうにゅう~
- 天保四年(1647年) ― 正徳六年(1716年) / 六十九歳
- 出自
-
- 名
-
[通称]【新兵衛】
[号]【浄入】
- 師事
-
『大西家四代/大西浄頓』
- 作風
-
釜は『大西家二代/大西浄清』などと比較すると少し厚手で地紋のあるものが多く、書院風広間向きのものが多い。
形は京作風とは異なったものが多く、地肌は砂気がありその砂肌も『大西家二代/大西浄清』よりやや深い。
- 享年
-
正徳六年(1716年)没。享年六十九歳。
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- 大西家六代 大西 浄元(古浄元) ~おおにし・じょうげん(こじょうげん)~
- 元禄二年(1689年) ― 宝暦十二年(1762年) / 七十三歳
- 出自
-
『[父]大西家四代/大西浄清』の子
- 名
-
[幼名]【清吉】
[名]【清右衛門】
[通称]【古浄元】
[号]【浄元】
[諱]【重義】
- 師事
-
『大西家五代/大西浄入』
- 事績
-
後の『大西家九代/大西浄元』と区別して【古浄元】と言われている。
【大西家六代/大西浄元】の時代には「わび茶」も定着し、千家流の茶道が爛熟期に入りその結果「わび茶」に向いた釜が求められるようになる。
同時に【大西家】では【大西家六代/大西浄元】の頃より釜作も自然に多くなり、作家としての意識も強まり【大西家】の作風も確立されるようになる。
また【大西家六代/浄元】より「千家」に出入りするようになる。
- 作風
-
【大西家】でも草庵風の茶に向く独自の地肌をもった釜を作るようになり、形も「阿弥陀堂」、「鶴首」などが多く、肌もやや細かい打肌で焼き抜きの手法を用いて整った肌味を呈している。
- 享年
-
宝暦十二年(1762年)没。享年七十三歳。
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- 大西家七代 大西 浄玄 ~おおにし・じょうげん~
- 享保五年(1720年) ― 天明三年(1783年) / 六十三歳
- 出自
-
『[父]大西家六代/大西浄元』の子
- 名
-
[幼名]【清吉】
[名]【清右衛門】
[通称]【くろ玄】
[号]【浄玄】
[諱]【末算】
- 師事
-
『[父]大西家六代/大西浄元』
[茶]『三谷宗鎮()』
- 事績
-
【大西家七代/大西浄玄】の【玄】の字から他の『浄元』と区別して【くろ玄】と呼ばれる。
【大西家七代/大西浄玄】は『大西家ニ代/大西浄清』に次ぐ名手と言われ【大西家】では【中興の祖】とあがめられその性格は、極めて謹厳実直で真面目であったといわれている。
『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の門人で門下四天王の一人『三谷宗鎮()』に「茶の湯」を学び、質素倹約を旨とした茶風で知られる。
また『三井家』、『鴻池家』、『木下道生庵()』などとの親交を持ち「数寄者」として多くの茶道具を愛蔵したといわれている。
- 作風
-
釜肌は先代『[父]大西家六代/大西浄元』と比べるとやや大きく、よく整った美しい気品のある格調高い作品を制作している。
その形は様々で「草庵風の丸釜」、「尻張」、「阿弥陀堂」が多く見られその中に地紋を入れるなどの工夫ももらしている。
口づくりには「荒れ」を入れて景色を出すなど作風の多様性を示し技術の冴えを見みせている。
また蓋は焼き抜き技法により、表面に唐銅の酸化物である紅を浮き出させ赤味がかった入念で見事な仕上がりで【大西家】独自の美しい蓋作りの伝統を打ち立てた。
- 享年
-
天明三年(1783年)没。享年六十三歳。
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- 大西家八代 大西 浄本 ~おおにし・じょうほん~
- 延享四年(1747年) ― 天明五年(1785年) / 三十八歳
- 出自
-
『[義祖父]大西家六代/大西淨元』の孫娘の婿
『[義父]大西家七代/大西淨玄』の養子
- 名
-
[幼名]【清吉】
[名]【清右衛門】
[諡]【浄本】
[諱]【兼満】
- 師事
-
『[義父]大西家七代/大西淨玄』
- 事績
-
【大西家八代/大西浄本】は、【清右衛門】のまま三十九歳で死去。
また【浄本】の号は死後に奉る、生前の事績への評価に基づく『諡 (おくりな)』 である。
- 作風
-
草庵小間向きの【大西家】の伝統の作風になりきったものが多く見られその作風は打肌を施したおとなしいものである。
- 享年
-
天明五年(1785年) / 三十八歳
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- 大西家九代 大西 浄元 ~おおにし・じょうげん~
- 寛延二年(1749年) ― 文化八年(1811年) / 六十二歳
- 出自
-
《信濃国/飯田》の『奥平善四郎()』の子
『大西家』の養子
- 名
-
[幼名]【巳之助】
[名]【保房】
[通称]【佐兵衛】【佐兵衛浄元】
[号]【了雪】【浄元】
- 師事
-
『大西家七代/大西浄玄』
『大西家八代/大西浄本』
- 事績
-
『大西家七代/大西浄玄』の門人で《信濃国/飯田》の『奥平佐兵衛』が養子となり【大西家九代/大西浄元】を襲名。
また『大西家六代/大西浄玄(古浄元)』や『大西家七代/大西浄玄』と区別して【佐兵衛浄元】と呼ばれる。
- 作風
-
【大西家九代/大西浄元】の作風は『大西家六代/大西浄玄(古浄元)』と同様に精作で、それ以上の名手であったとも言われている。
釜の地肌は荒いものもが見られるが晩年には徐々に細かくなってきている。
釜の地肌の打ち作りは一見してわかる特徴があり、品のよい美しい地肌とその形、そして環付の形にも【大西家】の特徴が十分に表現されている。
「羽落ち」は厚手で力強く巣穴などの見られる食い込みの味があり、また「蓋」は焼き抜きの紅のよく出た入念な手法で作られ撮みや座に至るまでよく吟味されている。
- 享年
-
文化八年(1811年)没。享年六十二歳。
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- 大西家十代 大西 浄雪 ~おおにし・じょうせつ~
- 安永六年(1777年) ― 嘉永五年(1852年) / 七十五歳
- 出自
-
『[父]大西家九代/大西浄元』の長男
『[]奥平了保()』の兄
- 名
-
[幼名]【清吉】
[名]【三右衛門】【清右衛門】
[号]【浄雪】【弄鋳軒】
[諱]【長喬】
- 師事
-
『[父]大西家九代/大西浄元』
- 門下
-
『玉村徳兵衛()』
『初代/高木治良兵衛()』
- 事績
-
『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』より【浄雪】を拝領。
『表千家十代/吸江斎祥翁宗左(1818-1860)』からは【弄鋳軒】の軒号を拝領し、自分の茶席の名称に用いた。
また「名物釜記」、「名物釜由緒聞信控」、「釜の図 (八巻)」を編算し、三千家や諸流派の「好物」や「名物釜」の形態などを調査・記録し【大西家】では随一の学者として知られている。
- 作風
-
【大西家】の伝統になりきった茶気のある小肌で美しい典雅な作品が多く高雅で上品な形や美しく整った地肌の中によく調和する装飾地紋を数々の工夫をこらして製作し地肌との調和の面で新境地を開いている。
また唐銅蓋置も一見して【大西家十代/大西浄雪】作とわかるものが多く「芦屋」、「天明」、「与次郎」の写し釜にも独自の解釈を加えている。
- 『[弟]奥村了保()』
-
【大西家十代/大西浄雪】の弟である『奥平了保()』 は母方の姓『奥平』を名乗り、釜作を行う。
その作は、近世における随一の名人と評価され、釜や鐶付の形や地肌に品格のある美しさを残している。
嘉永五年(1852年)没。享年七十六歳。
- 享年
-
嘉永五年(1852年)没。享年七十五歳。
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- 大西家十一代 大西 浄寿 ~おおにし・じょうじゅ~
- 文化五年(1808年) ― 明治八年(1875年) / 六十七歳
- 出自
-
『森家』の子
『[養父]大西家十代/大西浄雪』の養子
- 名
-
[元性]【森】
[幼名]【清吉】
[名]【三右衛門】【清右衛門】
[号]【浄寿】
[諱]【道敬】
- 師事
-
『[養父]大西家十代/大西浄雪』
- 事績
-
京都『森家』から養子に入った【大西家十一代/大西浄寿】の性格は豪放磊落で華美を好んだと言われている。
前半の華麗なよい時代に比べ後半は幕末・明治という時代の波にもまれ茶道は衰退する。
- 作風
-
【大西家十一代/大西浄寿】の作風は豪放華麗でしかも趣深い物が多く、全体に力強く、地肌はことのほか入念で動きがあり、大胆で美しく、かつ大肌・中肌の美しい地肌の中に荒れなどもおもしろく配されている。
釜の仕上げにも創意工夫を凝らしさまざまな改良を加え近世での【大西家】の伝統作風の上に【大西家十一代/大西浄寿】独自の作風を打ち立てた。
- 享年
-
明治八年(1875年)没。享年六十七歳。
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- 大西家十二代 大西 浄典 ~おおにし・じょうてん~
- 天保十二年(1841年) ― 明治二年(1869年) / 二十八歳
- 出自
-
『[父]大西家十一代/大西浄寿』の長男
『[母]楽家十一代/樂慶入』の長女『みね』の長男
- 名
-
[名]【三右衛門】
[諡]【浄典】
- 師事
-
『[父]大西家十一代/大西浄寿』
- 事績
-
先代『[父]大西家十一代/大西浄寿』と『楽家十一代/樂慶入』の長女『[母]みね』との一子【三右衛門】が【大西家十二代/大西清右衛門】を襲名。
- 作風
-
【大西家十二代/大西浄典】の作風は小肌で形は少し変わったものが見られるが総体的におとなしく、また【大西家十二代/大西浄典】は短命のためその作品は寡作である。
- 享年
-
明治二年(1869年)没。享年二十八歳。
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- 大西家十三代 大西 浄長 ~おおにし・じょうちょう~
- 慶応二年(1866 年) ― 昭和十八年(1943年) / 七十七歳
- 出自
-
『[祖父]大西家十代/大西浄寿』の孫
『[父]大西家十二代/大西浄典』の長男
『楽家十一代/樂慶入』の長女『[母]みね』の長男
- 名
-
[幼名]【清三郎】
[名]【三右衛門】
[号]【浄長】
[諱]【孝信】
- 師事
-
『[父]大西家十一代/大西浄寿』
『玉村徳兵衛』
- 事績
-
明治二年(1869年)幼くして先代『[父]大西家十一代/大西浄寿』と死別し、幼少期を母方の【楽家】で過ごしている。
その後、明治八年(1875年)十歳の時、『[祖父]大西家十代/大西浄寿』とも死別、『玉村徳兵衛(浄徳)()』に後見され、数々の釜を製作。
その後『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』から【浄長】の号を賜り、また晩年は釜の鑑定や極めをしている。
【大西家十三代/大西浄長】の生きた時代は「茶の湯」の衰退した困難な時期であったが新しい茶道を模索・復興に努力し、また釜の変遷に関する著述なども残している。
- 作風
-
【大西家十三代/大西浄長】は謹巌実直な性格で釜の作風や形においても真面目なものが多く、その地肌も隅々まで行き届いた綺麗な小肌を実に几帳面に打ち込んだ作品が多く見られる。
時には変わった釜作も見られ装飾に日本画家である『橋本関雪(1883-1945)』や『山本春挙(1872-1933)』の絵を用いたものも数々残している。
唐銅蓋は焼き抜き技法にくすべの手法を加え典雅な作となっている。
- 享年
-
昭和十八年(1943年)没。享年七十七歳。
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- 大西家十四代 大西 浄中 ~おおにし・じょうちゅう~
- 明治二十一年(1888年) ― 昭和三十五年(1960年) / 七十二歳
- 出自
-
『[父]大西家十三代/大西浄長』の長男
- 名
-
[幼名]【清太郎】
[名]【清右衛門】
[諱]【高道】
[諡]【浄中】
- 師事
-
『[父]大西家十三代/大西浄長』
[参禅]『建仁寺第四代管長/黙雷宗淵(1854-1930)』
- 事績
-
昭和元年(1926年)、三十八歳の時に先代『[父]大西家十三代/大西浄長』より【大西家】の家督を継承。
『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』の「字」や「絵」を鋳込んだ華やかな釜が有名。
和尚から【高道】の名を受け、『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』より『中』の一字を与えられ、【浄中】と号す。
- 作風
-
【大西家】の伝統を受継ぎながら数々の変わった形の釜を手がけている。
「肌」、「口づくり」、「肩」の荒れなどは力強く思い切ったものがみられる。
戦後は従来からの脱皮を求め装飾地紋の手法にも改良を加え装飾性の多い典雅華麗な釜を作り「大寄茶会」や「広間」向けの釜など戦後の茶道に応じた新分野を開拓した。
- 享年
-
昭和三十五年(1960年)没。享年七十二歳。
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- 大西家十五代 大西 浄心 ~おおにし・じょうしん~
- 大正十三年(1924 年) ― 平成十四年(2002年) / 七十八歳
- 出自
-
『[父]大西家十四代/大西浄中』の次男
- 名
-
[幼名]【益三郎】
[名]【健生】
[通称]【清右衛門】
[号]【浄心】
- 事績
-
先代の『[父]大西家十四代/大西浄中』の次男として生まれ「九州大学」卒業後、「京都大学大学院」、「京都美術学校専攻科」にて学ぶ。
昭和三十五年(1960年)、三十六歳の時に【大西家十五代/大西清右衛門】を襲名。
京釜についての執筆も旺盛に行い、多くの論文をのこしている。
- 出仕
-
昭和三十五年(1960年)、『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』の要請により【大西家十五代/大西浄心】をはじめ他の【職家】より『土田家十二代/土田友湖(1939-)』・『黒田家十三代/黒田正玄(1936-207)』・『飛来家十五代/飛来一閑(1926-1981)』・『奥村家十二代/奥村吉兵衛(1934-)』と共に五人揃って出仕する事となる。
- 作風
-
荒い「肌」に大胆な「絵文字」を施したものが見られ「千家御好物」の釜を多く制作。
- 享年
-
平成十四年(2002年)没。享年七十八歳。
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- 大西家十六代 [当代] 大西 清右衛門 ~おおにし・せいうえもん~
- 昭和三十六年(1961年) ― 年(年) / 歳
- 出自
-
『[父]大西家十五代/大西浄心』の長男
- 名
-
[幼名]【英生】
[名]【正晃】
- 事績
-
『[父]大西家十五代/大西浄心』の長男として《京都/釜座》に生まれる。
「大阪芸術大学彫刻科卒業」の後、平成五年(1993年)【大西家十六代/大西清右衛門】を襲名。
平成七年(1995年)より芦屋釜の「金属組織」・「成分」・「技法解明」の研究に着手し、平成八年(1996年)一月には甑炉による『和銑製鉄実験』に成功、翌月二月には秘法とされた『挽中子技法』の再現に成功。
平成十年(1998年)三月に《京都/高島屋》で初個展を開催、同年十月には『大西清右衛門美術館』を開設。
同時に官長に就任している。
- 享年
-
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ー◆ 各解説文章についてのお願い ◆ー
「和伝.com」内に掲載しています各解説文章につきましては、運営者が茶道の修練にあたり、個人的にまとめた解説文章となっておりますので個人的な見解や表現なども含まれていることを事前にご理解頂き、ご参考にされる場合は皆様が修練なさっています先生などにご確認の上、自己の責任においてご参考にして頂きますようよろしくお願い申し上げます。
また弊社は各解説文章のご利用について生じた問題等において一切の責任は負いかねますので予めご了承ください。