TOP > 千家十職 > 中村 宗哲
代 |
名/生没享年 |
初代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
元和三年(1617年) ― 元禄八年(1695年) 五月二十四日 / 七十九歳 |
二代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
寛文十一年(1671年) ― 宝永三年(1706年) 十月十二日 / 三十六歳 |
三代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
元禄十三年(1699年) ― 安永五年(1776年) 一月二十二日 / 七十七歳 |
四代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
享保十一年(1726年) 十二月十八日 ― 寛政三年(1791年) 八月十二日 / 六十四歳 |
五代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
明和元年(1764年) 八月二日 ― 文化八年(1811年) 七月十六日 / 四十八歳 |
六代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
寛政四年(1792年) ― 天保十年(1839年) 三月二十九日 / 四十六歳 |
七代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
寛政十年(1798年) ― 弘化三年(1846年) 二月二十六日 / 四十九歳 |
八代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
文政十一年(1828年) ― 明治十七年(1884年) 二月一日 / 五十七歳 |
九代 |
中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
安政三年(1856年) ― 明治四十四年(1911年) 十二月二十一日 / 五十六歳 |
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九代中村宗哲/十代中村尼宗哲 [長男] 中村 哲太郎 ~なかむら・てつたろう~
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十代 |
中村 尼宗哲 ~なかむら・あまそうてつ~
文久二年(1862年) ― 大正十五年(1926年) 二月十四日 / 六十五歳 |
十一代 |
中村 元斎宗哲 ~なかむら・げんさいそうてつ~
明治三十二年(1899年) ― 平成五年(1993年) 八月十六日 / 九十五歳 |
十二代 |
中村 宗哲(弘子) ~なかむら・そうてつ(ひろこ)~
昭和七年(1932年) 三月 ― 平成十七年(2005年) 月日 / 七十三歳 |
[当代] 十三代 |
中村 宗哲(公美) ~なかむら・そうてつ()~
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三千家御用達の【塗師】として、「香合」、「棗」をはじめ代々三千家御家元の「茶杓」の製作などを行う【職家】。
【中村家初代/中村宗哲】の父は『中村式部少輔(孫・平次)』の家臣であったが、『「大阪夏の陣(慶長二十年(1615年))」の合戦をうとみ、京都の武者小路へ隠栖した』との【中村家三代/中村宗哲】の後室の家伝がある。
また【中村家】の過去張の初めに慶長十五年(1610年)没の【肇智妙春信女】の戒名がありそれが元祖の母と思われる。
『豊臣秀吉(1536-1598)』の武士として「茶の湯」に心酔していたであろうが、後に『徳川家』の世となり『豊臣家』との関わりを口伝することを控えたであろう詳しい伝記は残されておらず、一条通の北、市中の山居めいた《武者小路》に居を定めて茶の湯者の日々を過ごしたと思われる。
その二年後の元和三年(1617年)に息男【中村家初代/中村宗哲】が生まれる。
そして承応三年(1654年)【中村家元祖(覚法源想信士)】は没し、室【月山秀悦信尼】は貞亨三年(1686年)九十歳の天寿を全う。
【中村家】の当初は蒔絵を施した家具などの製作(通例「塗師」)も行っていたが、明治時代以降は茶道具の塗師(「型物塗師」)専業となっている。
- 中村家初代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~ [号]
- 元和三年(1617年) ― 元禄八年(1695年) 五月二十四日 / 七十九歳
- 出自
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『[娘婿]武者小路千家四代/似休斎一翁宗守』の養父
- 名
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[姓]【吉岡】
[名]【公弼】
[通称]【八衛門】【八左兵衛】
[号]【方寸庵】【塗翁】【勇山】【林斎】
- 事績
-
【八兵衛】の生家、武者小路の隣家は『福島正則(1561-1624)』の塗師『吉文字屋与三右衛門(吉岡家)』があり台所には車をつけた飯櫃がある程、大勢の職人を抱えていたと伝えられる。
【塗師】を継いだ【中村家初代/中村宗哲】が「利休形」の制作を始めたのも居士遺愛の諸道具寸法や仕様を『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』や『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』から指導を受けての事であったと思われる。
『山田宗徧(1627-1708)』の元禄三年(1690年)著『茶道要録』には「西無車小路中村宗哲」の「利休形諸道具之代付」として塗物以外の風炉や灰道具・水屋道具など六十六種の利休形が列記されている。
茶杓の下削りにもすぐれ自作の茶杓も残されている。
また『藤村庸軒(1613-1699)』や『灰屋紹益(1607-1691)』との親交があり、遠祖は『播磨三木城主/別所長治(1558-1580)』の臣と伝える。
- 作品
-
【中村家初代/中村宗哲】の作風は器用な作振りで棗の甲面つくりは、やや扁平で美しく、技法は『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の塗師『関宗長()』の作風を受継いだようである。
千家塗師として宗匠方の「好み物」の製作が始まり、寸法張には「宗旦好み」、「江岑好み」、「千叟好み」、「随流斎好み」、「宗全好み」、「庸軒好み」の記載があり「江岑好み」の「独楽香合」、「和広椀」などが伝世している。
作銘は漆書。
- 武者小路千家
-
『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の次男(後の『武者小路千家四代/似休斎一翁宗守』)は【中村家初代/八兵衛】の娘婿となり『吉岡甚右衛門(後の『武者小路千家四代/似休斎一翁宗守』)』を名乗り塗師を営んでいたが、父『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』から茶家を望まれ慶安の頃、『宗守』の号を得て《武者小路千家/官休庵)》へ戻り『吉岡家』を出て千家に戻り家業を【八兵衛(『中村家初代/中村宗哲』)】に譲る。
「一翁(宗守)の娘を塗師織、吉文字屋号共附属にて初代宗哲(八兵衛)妻に致され候なり。」
と『中村家三代/中村宗哲』の後室は伝える。
その折に到来した【四方手水鉢】は「武者小路千家」のそれと一対をなし今も両家の庭に置かれている。
『福島正則(1561-1624)』を祀る「福守稲荷」は幕末までは【中村家】で現在は「武者小路千家」で祀られその縁が偲ばれる。
- 藤村庸軒
-
『藤村庸軒(1613-1699)』との交流は深く息男と共に門人として記されており「凡鳥棗」・「望月棗」・「朱茶棗」・「竹次棗」・「摽有梅棗」など『藤村庸軒(1613-1699)』の「御好物」を多くし伝世している。
【中村家初代/中村宗哲】が削った茶杓に「詩銘」を考案する『藤村庸軒(1613-1699)』の文や二人で貧富を論じた時の『藤村庸軒(1613-1699)』の詩文も残っている。
元禄八年(1695年)七十九歳で没した【中村家初代/中村宗哲】の墓は【四方仏手水鉢】を象り、両親の名前も刻し『藤村庸軒(1613-1699)』ゆかりの《黒谷(金戒光明寺)》に定められた。
- 享年
-
元禄八年(1695年) 五月二十四日。享年七十九歳。
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- 中村家二代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 寛文十一年(1671年) ― 宝永三年(1706年) 十月十二日 / 三十六歳
- 出自
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『[父]中村家初代/中村宗哲』の子
- 名
-
[幼名]【八兵衛】
[号]【汲斎】【元哲】【宗哲】
- 師事
-
『[父]中村家初代/中村宗哲』
- 事績
-
『[父]中村家初代/中村宗哲』が五十五歳の時に生まれた【中村家二代/中村宗哲】は幼時より『[父]中村家初代/中村宗哲』の訓育をうけながら「茶の湯」にふれ、十一歳の頃には『[父]中村家初代/中村宗哲』をはじめ叔父である『武者小路千家五代/許由斎文叔宗守(1658-1708)』と「仙叟茶会」に同座し、また十五歳の時にも『表千家五代/随流斎良休宗左(1650-1691)』に交じって参加している。
二十五歳で『[父]中村家初代/中村宗哲』を亡くし【中村家】の家督を継ぐこととなる。
【利休形】の制作と【御好】を受けての製作に加えて御所御用や大名家向けの製作など【吉文字屋】の塗師業もあったと考えられる。
室に『日吉大社権禰宜従五位上/祝部祝禰行晃()』の女を迎え、元禄二年(1699年)、『鍋千代([子]中村家三代/中村宗哲)』が誕生。
しかし七歳の息男を残して【中村家二代/中村宗哲】は宝永三年(1706年)に三十六歳で没した。
【中村家二代/中村宗哲】より【豊田八郎兵衛】の名で御所出入りとなり、代々受け継いで明治維新に至る。
- 作品
-
十四年という短い継承期間であったが「利休形中棗(表千家五代・随流斎良休宗左判)」、「黒吹雪」、「真手桶」、「長盆」、「松木盆」、「朱引盃」、「武者小路千家五代/許由斎文叔宗守好み 菊桐大棗」、「藤村庸軒好み 凡鳥棗」、「面朱黒吹雪」、「竹中次」、「若狭盆」、「紹鷗棚」などが伝世している。
箱書には【漆師】の字は無く、作名は【哲】の漆書。
- 享年
-
宝永三年(1706年) 十月十二日没。享年三十六歳。
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- 中村家三代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 元禄十三年(1699年) ― 安永五年(1776年) 一月二十二日 / 七十七歳
- 出自
-
『[父]中村家二代/中村宗哲』の子
- 名
-
[幼名]【鍋千代】
[通称]【八兵衛】
[号]【方寸庵】【漆翁】【漆桶】【勇斎】【公弼】【芹生】【宗哲】
[俳号]【紹朴】
[俗称]【彭祖宗哲】
- 師事
-
[茶]『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』
[俳諧]『堀内家初代/堀内仙鶴(1675-1748)』
- 門下
-
『半哲()』
- 事績
-
七歳の時に『[父]中村家二代/中村宗哲』を十一歳の時に母を亡くした【中村家三代/中村宗哲】は幼くして【中村家】の家業を継承。
二十歳までに『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』の茶事に『川上宗雪(1738-1822)』や『多田宗掬(1726-1796)』らとともに客となっている。
後には宗匠方をお招き茶事を催すなど「茶の湯」に触れながら成長。
『不白筆記』によると「如心斎」、「宗室」、「宗守」、「宗雪」が花月を試され若年の【中村家三代/中村宗哲】らが【七事式】制定の場に立ち会う様子が記されている。
さらに聞書には【中村家三代/中村宗哲】が年賀茶事に
「棗を紫服紗に包み、腰に黄服紗を下げ、出し服紗に紅を用い、仕舞に三色とも腰に付け引く、其漆桶の作畧也時の人賞美す」
と機智に富む点前の様子も伝えている。
御所御用では宝暦十二年(1762年)「後桜町帝御大札」の御道具を製作。
「塵」を嫌う漆塗りのため裸になり紙帳の中で仕事をする【中村家三代/中村宗哲】の姿が『茶器名物図彙』に記され七十年に及ぶ家業継承の精力的な姿が偲ばれる。
- 作品
-
作品は重厚で大変雅味があり、「乱菊の棗」、「夜桜棗」を始めとして作品多い。
三十歳までに『覚々斎判』、『六閑斎判』の【利休形棗十器】の制定に参画製作。
その後【如心斎判利休形十二器制定】にも預かり、やがて当時の好みも加えた【三十二器】を製作。
いずれも今日伝世してその規範となっている。
当時の【千家御好】の棗を制定。
作名は【漆書】、箱の【署名】も太く大字のと小さくて細いものがある。
- 俳諧
-
俳諧を好んだ【中村家三代/中村宗哲】は『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の門人であった俳人『堀内家初代/堀内仙鶴(1675-1748)』に学び『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』や『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』との連句を楽しみ、仙鶴追悼句集『後のしぐれ』の編集にも加わった。
その後六十歳前後には京俳人とおおくの連句を巻いた。
七十歳の賀には「七百歳の彭祖仙人」にあやかり、はうその字を冠・かくし字・沓の折句として箱書付した【彭祖棗】を七百造ろうと発意。
「紹鷗大棗」、「高台寺子棗」、「亀棗」、「秋野棗」、「再来棗」、「柳棗」、「夜桜棗」、「菊棗」、「本の字大棗」、「又隠棗」の十種の箱にすべて異なる折句を付して製作を続けた。
『紹朴追悼句集』には『与謝蕪村(1716-1783)』や『高井几菫(1741-1789)』から「都の名物」と俳諧の【塗師】を惜しむ文や句が寄せられた。
- 享年
-
安永五年(1776年) 一月二十二日没。享年七十七歳。
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- 中村家四代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 享保十一年(1726年) 十二月十八日 ― 寛政三年(1791年) 八月十二日 / 六十四歳
- 出自
-
『[義父]中村家三代/中村宗哲』の娘「忍宅」の夫
- 名
-
[伴]【豊田】
[名]【為安】
[通称]【八郎兵衛】
[号]【深斎】【宗哲】
[俗称]【八郎兵衛宗哲】
- 師事
-
『[義父]中村家三代/中村宗哲』
- 門下
-
『宗兵衛()』
- 事績
-
『[義父]中村家三代/中村宗哲』の婿養子となった【為安】は『近衛家』、『鷹司家』の知遇を受け公家風の暮らしぶりであった。
息男『鉄五郎(宗兵衛又は紹哲)』とは妻『忍宅』の没後に不縁となり『[義父]中村家三代/中村宗哲』とも意見が合わず三十歳の頃には《一条新町》の別宅で【八郎兵衛】の名で【塗師】を営んだ。
また若年時の作品には【八郎兵衛】と署名作品があり、【八郎兵衛宗哲】ともいわれる。
安永三年(1774年)九月『後桃園天皇(1758-1779)』の「女御御入内御用品調達」の節、以後御出入願状を出し、【伴為安】、【豊田八郎兵衛】の名で「従六位下」、「主殿少属」、「兼左生火官人」に任じられ御所御用を務めた。
その二年後、『[義父]中村家三代/中村宗哲』が没し、後室を迎えて【中村家四代/中村宗哲】を継ぎ養子も迎えた。
天明八年(1788年)一月の「天明の大火」に罹災後、『[義父]中村家三代/中村宗哲』の後室と妻を亡くし、自身も三年後に没す。
- 作品
-
「利休形」や以前の「御好道具」の再製作のほか斬新な「直斎好み/源氏車香合」、「名取川香合」、「矢筈棚」、「不見斎好み/糸目家具揃い」、「つくつく臼水指」など意匠的であり伝世品も多い。
署名の【哲】の字は四代の【四】の字をかたどった。
- 享年
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寛政三年(1791年) 八月十二日没。享年六十四歳。
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- 中村家五代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 明和元年(1764年) 八月二日 ― 文化八年(1811年) 七月十六日 / 四十八歳
- 出自
-
『青沼家』の人
『[義父]中村家三代/中村宗哲』の娘「こう」の夫
『[長男]中村家六代/中村宗哲』の父
『[次男]中村家七代/中村宗哲』の父
- 名
-
[名]【守一】
[通称]【八兵衛】
[号]【豹斎】【宗哲】
[俳号]【漆畝】
- 師事
-
『[義父]中村家三代/中村宗哲』
[茶]『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』
[俳諧]『三宅嘯山(1718-181)』
- 事績
-
十五歳で医師の【青沼家】から『[養父]中村家四代/中村宗哲』の養子となり家添いの娘『こう(『中村家三代/中村宗哲』の娘)』が室となった。
天明三年(1783年)、『[養父]中村家四代/中村宗哲』の辞官にあたり、二十歳で【主殿寮補左生火官人従六位下】に叙され四年後【兼式部大録】に任じられて御所御用品を製す。
「茶の湯」は『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』へ入門。
茶事も度々催し茶杓を削り、手造り茶碗も遺している。
天明八年(1788年)一月の「天明の大火」に罹災し、三年後に【中村家】の家督を継承。
一条仮屋で黒塗蒔絵の「加州網椀」を製作し、三十七歳で《武者小路》の家を再建。
火災時に持ち出しに成功した資料の整理に心を砕き、歴代の「資料」や「寸法張」・「憶張(図案張)」を整備し、『[養父]中村家三代/中村宗哲』の後室からの【家譜聞書】や家訓を作成。
またこの頃から千家流の茶にも「認徳斎好み蔦蒔絵中棗」のような【蒔絵棗】が登場する。
- 印
-
作銘は【針彫】を主とし、印は「天明の大火」以前の【哲】の字は『[養父]中村家四代/中村宗哲』の唐草入りの印判をそのまま用いたが、大火後は字体と印を改め年月日を付した花押もみられる。
- 俳諧
-
『三宅嘯山(1718-181)』の門に入り『長府/俳人/田上菊舎尼(1753-1826)』の茶会に『堀内家四代/方合斎宗心(1743-1816)』と共に参じ「棗」と「句」を贈っている。
- 遺言
-
三男四女のうち、長男『昌之介(中村家六代/中村宗哲)』に『八兵衛』を名乗らせ形物一切の【塗師職】を任せ、弟『槌六(中村家七代/中村宗哲)』には『八郎兵衛』を名乗らせ御所表用と併せて通例の【塗師織】をするように遺言を遺す。
また『利休居士(1522-1591)』の命日には《京都/大徳寺》に参詣し千家代々の墓参を、家では先祖忌日にと
「五行皆元へかへして今ぞ喝」
を掛け先祖を思い礼拝するよう遺言を遺す。
- 享年
-
文化八年(1811年) 七月十六日没。享年四十八歳。
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- 中村家六代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 寛政四年(1792年) ― 天保十年(1839年) 三月二十九日 / 四十六歳
- 出自
-
『[父]中村家五代/中村宗哲』の長男
『[次男]中村家七代/中村宗哲』の兄
- 名
-
[幼名]【昌之助】
[名]【為一】
[通称]【八兵衛】【八郎兵衛】
[号]【楪斎】【宗哲】
- 師事
-
『[父]中村家五代/中村宗哲』
- 門下
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『庄兵衛()』
- 事績
-
『[父]中村家五代/中村宗哲』他界の翌文化九年(1812年)二十一歳で形物値段を極めて『[父]中村家五代/中村宗哲』の遺言通り【形物塗師職】を継承。
しかし文化十二年(1815年)に故あってこの【形物製作】を弟の『[次男]中村家六代/中村宗哲』』に譲り、自身は【八郎兵衛】の名で通例の【塗師職】を営み自由な立場で「茶の湯」や「俳句」を楽しんだ。
- 作品
-
棗類は「利休形二十二」、「好棗四十種」、「香合二十五」、「水指六」、「台子七」、「板十四」、「棚五」、「田葉粉盆十四」、「盆九」、「硯箱三」、「灯具四」、「炉縁四」、「硯箱四」、「印籠二」、「七事道具一式」、「風炉先他十種」。
懐石道具は「椀二十」、「折敷二十」、「吸物椀十五」、「両次十五」、「酒器十」、「重箱三」、「菓子器十」の各種が製作されている。
また【中村家六代/中村宗哲】の署名で伝世している作には「認徳斎好み宝船棗」、「祇園攘疫棗」、「郡亀棗」、「熨斗棗」、「瓢箪形昼夜夜桜茶箱」など意匠的作意がみられる。
- 享年
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天保十年(1832年) 三月二十九日没。享年四十八歳。
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- 中村家七代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 寛政十年(1798年) ― 弘化三年(1846年) 二月二十六日 / 四十九歳
- 出自
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『[父]中村家五代/中村宗哲』の次男
『[長男]中村家六代/中村宗哲』の弟
- 名
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[幼名]【槌六】
[名]【安一】
[通称]【八郎兵衛】【八兵衛】
[号]【得玄】【獏斎】【黒牡丹】【宗哲】
[俗称]【得玄宗哲】
- 師事
-
『[父]中村家五代/中村宗哲』
- 門下
-
『庄兵衛()』
- 事績
-
文化十二年(1815年)形物極値段に【中村家七代/中村宗哲】改を記し【中村家】の家督を継承。
天保十四年(1843年)『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』を通じ、尾州家御用をつとめ【得玄】の号を拝領。
また文化九年(1826年)-天保八年(1837年)までの日記に当時の世相や公家、所司代との関わりなどを記している。
天保十五年(1844年)には《裏千家/今日庵》より【茶通箱伝授】を受け、『武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守(1763-1838)』からは【黒漆桶裏盛墨汁】の一行を頂く。
- 作品
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【中村家】歴代中もっともすぐれた作振りで堅緻清澄、厚造りで『記三(生没享年不詳)』あたりの作に酷似し、キ方垂直で合口に傾斜があり、「棗」、「台子」、「手桶」のどれをみても技倆は抜群である。
当時の名工の一人である『佐野長寛(1791-1863)』も【中村家七代/中村宗哲】の元を訪れ意見を聞いている。
「花白河蒔絵平棗」、「名取川硯箱」、「認徳斎好み奉書張亀棗」、「夕顔棗」、「折撓棗」、「玄々斎好み西山名所棗」の連作、「不見斎好み五十盃」など好みの趣向をよく表現している。
また「朱手職一対」、「精進会席椀一式」、「吉野椀一式」、「不見斎好み糸目椀家具一式」を納め「尾州大納言好み玉兎炉縁・茶杓」も製作。
さらに『光格天皇(1771-1840)』より《宝鏡寺(百々御所)》皇女へ下賜された【夕顔台子皆具】を【職家】の『大西家十代/大西淨雪(1777-1852)』、『中川家七代/中川淨益(1796-1859)』、『楽家十代/楽旦入(1795-1854)』と共に合作。
- 享年
-
弘化三年二月(1846年) 二十八日没。享年四十九歳。
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- 中村家八代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 文政十一年(1828年) ― 明治十七年(1884年) 二月一日 / 五十七歳
- 出自
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『[父]中村家七代/中村宗哲』の長男
『[婿養子]中村家八代/中村宗哲』の義父
- 名
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[幼名]【丑之助】
[名]【忠一】
[通称]【八郎兵衛】
[号]【至斎】【聴雨】【蜂老】【宗哲】
- 師事
-
『[父]中村家七代/中村宗哲』
- 門下
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『二代庄兵衛()』
- 事績
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十三歳の夏に『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』より「子能継父業」の一行を、十八歳で「唐物許状」を受け、弘化三年(1846年)、先代『[父]中村家七代/中村宗哲』の急逝につき十九歳で三千家へご挨拶のうえ【中村家】の家督を相続し【中村家八代/中村宗哲】を継承。
『大徳寺/四百三十五世/大綱宗彦(1772-1860)』和尚の日記に【八郎兵衛学あり】とあり【聴雨】の号を頂く。
生涯能筆で幾冊もの「諸方注文録」、「見積帳」、「大福帳」、「価録」、「歳中行事帳」、「会記」、「町役記録」を残している。
嘉永七年(1854年)に御所炎上の延焼罹災で直ちに家屋を再建したが十二年後に備前藩駐在のため家屋を立ち退き、さらに明治維新の世情は「茶の湯」や「茶器売立」の不流行をもたらした。
前途を見て一事業を弟子『庄兵衛()』に委せ、自らは【京都博覧会会社】へ勤めその日誌を遺している。
この激動の時代、【千家十職】のひとつである『飛来家』より嫁した室や実母、実子を相ついで亡くしたが四女『真(中村家十代/尼宗哲)』には最新の学校教育を受けさせて後を託す。
- 作品
-
先代『[父]中村家七代/中村宗哲』の作とは反対に薄手の器用な『盛阿弥』と『中村家初代/中村宗哲』を合わせたような作で清楚な蒔絵のものが多い。
安政六年(1859年)の大福帳の年間製作を見ると棗類百十四個、他の道具類百二十一個と十七組、椀家具類は六十三個と五十二組となっている。
注文方は『鷹司家梅御殿』、『枳穀御殿』、『紀州様』、『高松様』、『津軽屋敷』、『尾州家』、『三千家』、『数寄者』、『織家』などであった。
明治九年(1876年)フィラデルフィアで開催された『米国百年祭大博覧会』に【中村八郎兵衛】の名で「菓子器二十三」、「菓子盆二」、「洗盃盂二」を出品し銅製の賞牌を受けている。
- 享年
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明治十七年(1884年) 二月一日没。享年五十七歳。
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- 中村家九代 中村 宗哲 ~なかむら・そうてつ~
- 安政三年(1856年) ― 明治四十四年(1911年) 十二月二十一日 / 五十六歳
- 出自
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『棟梁/松崎家』の長男
『[義父]中村家八代/中村宗哲』の婿養子
『[妻]中村家十代/中村尼宗哲』の夫
『[長男]中村哲太郎』の父
『[次男]中村家十一代/中村尼宗哲』の父
- 名
-
[旧性]【松崎喜三郎】
[名]【義生】【喜三郎】
[号]【英斎】【宗哲】
[俳号]【一畝】【雲水】
- 師事
-
『[義父]中村家八代/中村宗哲』
- 門下
-
『荘兵衛()』
『荘祝()』
『一哲()』
- 事績
-
明治十年(1877年)京都府師範学校小学教授科を卒業し、《上京区小川》の「中立・待賢小学校」などに【訓導】として勤務。
明治十八年(1885年)、三十歳で生家は弟に任せ、同じく小学校訓導であった『[義父]中村家八代/中村宗哲』の四女である『真([妻]中村家十代/中村尼宗哲)』の夫となり【中村家】の家業を相続。
家業不振の時期で勤務の傍ら塗物技術練達に励み『真([妻]中村家十代/中村尼宗哲)』とともに家業復興に苦心した。
- 作品
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『[義父]中村家八代/中村宗哲』の作風に倣い、「碌々斎好み/溢梅雪吹大小」、「黒絵玉書詰平棗」、「黒絵溢梅溜吹雪」、「溜ミル貝雪吹溜松木下張棗」、「粒菊蒔絵溜吹雪」、「ミル貝グリ喰籠」、「蓬莱椀家具」、「松葉吸物椀」などを製作。
また『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』の「御好物」には「鱗鶴大棗」、「朱茶桶水指」、「松笠蒔絵グリ喰籠」、「松摺漆丸卓」などがあり代表作には『蘇東坡後赤壁賦』による十五個の【望棗】は「碌々斎好み」、『[義父]中村家八代/中村宗哲』作の「既望棗」と二代にわたる連作の好み棗となった。
- 俳諧
-
俳句にも熱心で《表千家/不審庵》内の「弥生会」に参加し、『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』や『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』の夫人、「職家の仲間達」との月並俳句本を残している。
また「技芸の友」誌より詩俳寄稿の依頼を受け従業員を指導し投稿した。
- 享年
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明治四十四年(1911年) 十二月二十一日没。享年五十六歳。
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- 九代中村宗哲/十代中村尼宗哲 [長男] 中村 哲太郎 ~なかむら・てつたろう~
- 生没享年不詳
- 出自
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『[父]中村家九代/中村宗哲』の長男
『[母]中村家十代/中村尼宗哲』の長男
『[次男]中村家十一代/中村尼宗哲』の兄
- 名
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[号]【一哲】
- 事績
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『[父]中村家九代/中村宗哲』の死後、二十五歳で【中村家】の家督を相続し【中村宗哲】として茶道具製作を行い、箱にも署名したが間もなく家業を退き別居後は【一哲】と号し昭和初期に他界。
- 享年
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生没享年不詳。
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- 中村家十代 中村 尼宗哲 ~なかむら・あまそうてつ~
- 文久二年(1862年) ― 大正十五年(1926年) 二月十四日 / 六十五歳
- 出自
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『[父]中村家八代/中村宗哲』の四女
『[夫]中村家九代/中村宗哲』の室
『[長男]中村哲太郎』の母
『[次男]中村家十一代/中村尼宗哲』の母
- 名
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[名]【真子】
[号]【宗哲】
[俗称]【尼宗哲】
- 師事
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『[父]中村家八代/中村宗哲』
『[夫]中村家九代/中村宗哲』
- 事績
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母を五歳で亡くした後、学を好む先代『[父]中村家八代/中村宗哲』の指針で開校間もない「上京廿組小学校」へ九歳で入学、十四歳で卒業し、当時婦人参政論の先駆者であった『岸田湘煙(1864-1901)』の塾へ入る。
十六歳で京都府立最初の女学校女紅場一期生として入学。
二十歳で京都府立女学校女札・裁縫科を卒業。
女紅科修行中に養蚕製糸し織り上げた絹を裁縫した單袴を『京都府博覧会』に出品し【褒章】を受ける。
明治十五年(1882年)から五年間『小川小学校』の【準訓導】として勤務。
また自宅で裁縫の教授をし、千家宗匠方の着物十徳などを縫い苦境の家業を支えた。
この間に『[父]中村家八代/中村宗哲』を亡くし、翌明治十八年(1885年)に同じく小学校訓導であった『松崎喜三郎』を『[夫]中村家九代/中村宗哲』として迎え三男四女を生む。
五十歳で先代『[夫]中村家九代/中村宗哲』を亡くし、跡目相続の長男も退き別居した後、十五歳の次男『忠蔵(中村家十一代/中村尼宗哲)』を亡き先々代『[父]中村家八代/中村宗哲』の弟子の元で修行させる。
『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』から【尼塗り】として勤めるようにとお力添えもあり家業に精励。
また『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』は茶の静かで高潔な意匠をご教示され、それに叶う意匠をと製作計画に心を傾けた。
次代は対称の盛期に入り、製作は次男『忠蔵(中村家十一代/中村尼宗哲)』と職人衆があたる。
また大正八年(1919年)には明治維新の頃に立ち退きを余儀なくされていた旧地旧宅に復した。
その後、大正十四年(1925年)には次男『忠蔵(中村家十一代/中村尼宗哲)』の成長にともない【中村家】の家督を譲る。
- 作品
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『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』の【御好物】の作品を多く作る。
茶器は「大棗」、「中棗」、「平棗」、「吹雪」、「金林寺」、「飯器型」などの「塗」、「手法」、「モチーフ」に変化をもたらせたもの約五十八種があり「夕顔大棗」百個や「近江八景棗」など多作である。
「棗」以外の道具を見ると「香合」は二十七種、「水指」は「エゾ絵」、「野菊黒絵広口」など十種。
「棚」は「青漆爪紅四方棚」など五種。
「炉縁」は「ミル貝紅溜塗」など八種など七十六種に及ぶ。
また【雛用柳桜懐石家具一式】を始め「家具」は二十四種・菓子器類二十種など繊細な意匠の作を家元や数寄者に納品された。
- 享年
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大正十五年(1926年) 二月十四日没。享年六十五歳。
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- 中村家十一代 中村 元斎宗哲 ~なかむら・げんさいそうてつ~
- 明治三十二年(1899年) ― 平成五年(1993年) 八月十六日 / 九十五歳
- 出自
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『[父]中村家九代/中村宗哲』の次男
『[母]中村家十代/中村尼宗哲』の次男
『[妻]飛来家/飛来一閑』の孫「エツ」の夫
- 名
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[名]【忠蔵】
[号]【元斎】【叩城】
[法名]【九土】
- 師事
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[絵]『千種掃雲(1873-1944)』
[俳句]『松瀬青々(1869-1937)』
[書]『吉沢義則(1876-1954)』
- 事績
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十二歳で先代『[父]中村家九代/中村宗哲』と死別し兄も別居したため、『[母]中村家十代/中村尼宗哲』の技を受けついだ『鳥居氏』の技術指導を受ける。
『[母]中村家十代/中村尼宗哲』の家業経営を助け、職人衆と共に日夜仕事に勤しみ、大正十四年(1925年)より先代の【印】を用いて製作を開始。
また向学の志も止まず独学で見識を高め、絵は『千種掃雲(1873-1944)』、俳句は『松瀬青々(1869-1937)』、古文学や書は『吉沢義則(1876-1954)』博士に習う。
十六歳で千家へ出仕し、『堀内家』へも入門。
昭和激動の昭和六十年、「意匠/製作」は絶える事なく続き、その包装納品役の妻『エツ(飛来一閑・孫)』を昭和五十年に亡くし、その後昭和五十一年(1976年)【京都府文化功労章】、昭和五十五年(1980年)【茶道文化功労賞】の表彰を受ける。
昭和六十年(1985年)八十七歳の折、千家「八朔」の席で退隠ご挨拶をし、隠居。
「十徳」を頂き、長女『弘子(中村家十二代/中村宗哲)』に【中村家】の稼業を託し、その後長寿を全うするまで【元斎宗哲】の名で俳句画賛を楽しみ資料整理に勤しんだ。
- 作品
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『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』のご指導を受け、昭和十二年(1937年)までに約九十種の「惺斎宗匠御好」の「棗」、「茶道具」、「家具」などを製作。
「唐崎松中棗」、「東大寺古材蜀紅錦蒔絵香合」、「炉縁」、「醍醐枝垂桜大棗」など古材を精緻な意匠で美しく蘇らせている。
当時の宗匠形の「棗」、「茶道具」、「家具」の「御好物」はおよそ「愈好斎好み/十七種」、「淡々斎好み/十二種」、「即中斎好み/七十種」、「有隣斎好み/四種」、「鵬雲斎好み/十種」、「而妙斎好み/七種」となる。
昭和五年(1930年)には『貞明皇太后(1884-1951)』お好みの《茶席:「秋泉亭」》の為に「巌波御歌棗」、「秋泉棚」、「青天目台」、「梅鉢香合」が三千家より奉撰された。
昭和十五年(1940年)の『利休居士三百五十年忌』にも三千家の「独楽紋棗」と「寄せ紋棗」を製作し献上。
昭和の時代に入り「数寄者」の好みや展覧会も加わり独自の考案品も増え、戦前のものは『三井家』「桐浪台子」、「棗」、「炉縁」など約七十種、戦中には約五十種、戦後も七十種以上の「棗」、「茶道具」、「家具」を納めている。
- 享年
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平成五年(1993年)八月十六日没。享年九十五歳。
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- 中村家十二代 中村 宗哲(弘子) ~なかむら・そうてつ(ひろこ)~
- 昭和七年(1932年) 三月 ― 平成十七年(2005年) 十一月五日 / 七十三歳
- 出自
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『[父]中村家十一代/中村宗哲』の長女
- 名
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[名]【弘子】
- 事績
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戦争によって活気を失った仕事場で終戦を迎えたのは十三歳。
男女平等の新教育を受けて、女性でも漆の製作は可能ではないかと「京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)」への進学を決める。
入学すると伝統批判と欧米の工芸思想、工芸素材での自己表現の教育であった。
昭和三十年(1995年) 「同校」卒業後、【彩漆】の「屏風」や透しの「衝立」などの大作を日展に出品し評価を得る。
しかし横で製作する『[父]中村家十一代/中村宗哲』の宝石のような「茶の湯漆器」が茶席で有用に楽しまれるのを見て「茶の湯」や「家業の伝統資料と技術」の研修に努め工芸のあり様を考える。
昭和五十三年(1978年)の「世界クラフト会議」で茶の湯の工芸を語り、以後講演や執筆で日本の伝統の姿を問う。
昭和六十年(1986年)には【中村家】歴代の作品展や作品集で表情豊かな茶の湯の漆器を公開。
同年に『[父]中村家十一代/中村宗哲』が引退。
翌昭和六十一年(1987年)女性として初めて正式に【千家十職当主】として認めら女性の家元出仕のお許しを受ける。
同時に職家への仲間入りも認められ【中村家十二代/中村宗哲】を襲名。
『[父]中村家十一代/中村宗哲』と「双代展」を催し、また『月次絵櫃』や『伊勢物語』、『百人一首』などをテーマにした個展を各地で開催。
平成に入り『而妙斎家元好み展』・『鵬雲斎家元好み展』が開催され家元の【御好茶道具】を製作。
平成五年(1993年)に【京都府文化功労賞】受賞。
また漆器の普及を思い「金工」、「漆工」、「陶工」の【三人の娘】たちとつどい【漆器/哲工房】を開設。
「天地のかたち」や「源氏十二ヶ月」の組作品を制作し各地展観を行う。
また茶道具以外にも多数の漆器を製作し、工芸家としての評価も非常に高かった。
平成十二年(2000年)に【京都市文化功労者】表彰。
- 享年
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平成十七年(2005年)十一月五日心筋梗塞により急逝。享年七十三歳。
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- 中村家十三代 [当代] 中村 宗哲(公美) ~なかむら・そうてつ(くみ)~
- 昭和四十年(1965年) ― 年(年) 月日 / 歳
- 出自
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『[母]中村家十二代/中村宗哲』の次女
『[父]三代/諏訪蘇山』の次女
『[妹]四代/諏訪蘇山』の姉
- 名
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[名]【公美】
- 事績
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京都市立銅駝美術工芸高等学校/漆芸科卒業。
京都市伝統産業技術研修漆器コース・デザインコース修了。
その後、先代の『[母]中村家十二代/中村宗哲』手伝いをはじめる。
平成十八年(2006年)十月、家元へ初出仕。
同年【中村家十三代/中村宗哲】を襲名。
- 享年
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