TOP > 千家十職 > 黒田 正玄
代 |
名/生没享年 |
初代 |
黒田 正玄 [日参正玄] ~くろだ・しょうげん~ [にっさんしょうげん]
天正六年(1578年) ― 承応二年(1653年) / 七十六歳 |
二代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
寛永二年(1625年) ― 貞享四年(1687年) / 六十三歳 |
三代 |
黒田 正玄 [正斎] ~くろだ・しょうげん~ [しょうさい]
明暦二年(1656年) ― 享保二年(1717年) / 六十二歳 |
四代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
元禄五年(1692年) ― 享保十六年(1731年) / 四十歳 |
五代 |
黒田 正玄 [正斎] ~くろだ・しょうげん~ [しょうさい]
宝永五年(1708年) ― 安永七年(1778年) / 七十一歳 |
六代 |
黒田 正玄 [弄竹斎] ~くろだ・しょうげん~ [ろうちくさい]
延享四年(1747年) ― 文化十一年(1814年) / 六十八歳 |
七代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
明和五年(1768年) ― 文政二年(1819年) / 五十二歳 |
八代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
文化六年(1809年) ― 明治二年(1869年) / 六十一歳 |
九代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
天保八年(1837年) ― 安政六年(1859年) / 二十三歳 |
十代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
文政八年(1825年) ― 明治三十三年(1900年) / 七十六歳 |
十一代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
明治二年(1869年) ― 明治四十四年(1911年) / 四十三歳 |
十二代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
明治十三年(1880年) ― 昭和四十八年(1973年) / 九十四歳 |
十三代 |
黒田 正玄 [弄竹斉玄督] ~くろだ・しょうげん~ [ろうちくさいげんとく]
昭和十一年(1936年) ― 平成二十九年(2017年) 七月二十四日 /八十一 歳 |
[当代] 四代 |
黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
|

三千家御用達の【竹細工・柄杓師】として、「柄杓」、「花入」の制作をはじめ代々三千家御家元の「茶杓」の下削りなどを行う【職家】。
【黒田家】は「柄杓」の他「台子」、「香合」、「花入」など竹を使う「茶道具」を製作。
『わび茶』を完成させた『武野紹鷗(1502-1555)』は竹の茶杓を作り、『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』は自ら、『竹花入「尺八」』・『竹花入「園城寺(一重切)」』・『竹花入「よなが(二重切)」』を作り、『泪』・『ゆがみ』などの茶杓も作った。
名人の作った竹の茶杓は「金属」や「象牙」の杓をしのぐ価値を持つに至り、その後の茶人たちは『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』にならい自ら「竹を切り」、「茶杓を削り」、竹の道具を作った。
現在においても竹と茶の湯との結びつきは多岐にわたり「竹花入」・「籠花入」・「茶杓」・「籠炭斗」や「釜敷」・「竹蓋置」・「香合」・「水指」・「菓子器」などがありさらに点前に必須の道具である「柄杓」や「茶筅」がある。
【黒田家】では【黒田家初代/黒田正玄】より【黒田家八代/黒田正玄】までは【将軍家御用柄杓師】として柄杓を中心とする【竹細工】を業としてきた。
【黒田家初代/黒田正玄】は、武士であり『丹羽長重(1571-1637)』に仕えていたという。
しかし関ヶ原の戦いにおいて『丹羽長重(1571-1637)』は西軍に付き改易、【黒田家初代/黒田正玄】は浪人となったために剃髪して《大津》に移り住み、【竹細工職人】となった。
その後、評判の【竹細工師】となった【黒田家初代/黒田正玄】は『小堀遠州(1579-1647)』からの注文を受け、茶道界・江戸幕府とのつながりを作る。
「千家」との関係ができたのは【黒田家三代/黒田正玄】の時代であり『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の御用を勤めた頃からと伝えられている。
以後明治維新にいたるまで、『三千家』・『将軍家』の御用達【柄杓師】となる。
【黒田家十代/黒田正玄】は【黒田家九代/黒田正玄】早世により急遽婿養子となった人物だが、家督相続が明治維新と重なり、庇護者である幕府が崩壊、茶道も衰退する中、家業の保持に苦心。
その後を継いだ【黒田家十一代/黒田正玄】も早世、【黒田家十二代/黒田正玄】は周囲の援助を得ながら、戦中・戦後の困難な時期に家業を支えた。
【黒田家十四代 [当代]/黒田正玄】は平成二十六年(2014年)一月、【黒田家十三代/黒田正玄】の剃髪により【黒田家】の家督を継承し、【黒田家】初の女性当主となり現在に至る。
- 黒田家初代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~ [号] 日参正玄
- 天正六年(1578年) ― 承応二年(1653年) / 七十六歳
- 出自
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《越前国/黒田郡》の出身
- 名
-
[名]【七郎左衛門】【正玄】
[俗称]【日参正玄】
- 師事
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『一阿弥()』
『黒田庄兵衛()』
[茶]『小堀遠州()』
[参禅]『江月宗玩()』
- 師事
-
『大森漸斎()』
- 事績
-
《越前国/黒田郡》生れの武士で名を『七郎左衛門』。
当地の当主である『丹羽長重(1571-1637)』に仕えるが慶長五年(1600年)『関ヶ原の合戦』で西軍に与し一時改易、浪人になったことにともない『七郎左衛門』も二十三歳の頃《正玄寺》で剃髪して【正玄】と改名し《江州(滋賀県大津)》に移り住み【竹細工】の製造を始める。
当時『豊臣秀吉(1536-1598)』に柄杓を納めて『天下一』と称されていた『柄杓師/一阿彌(黒田庄兵衛)』に師事したといわれている。その後【竹細工】が評判を呼び京都に転居。
【黒田家初代/黒田正玄】は『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の弟子『古田織部(1544-1615)』に茶を学んだ武家茶人であり、伏見奉行でもある『小堀遠州(1579-1647)』より「茶の湯」を学び、茶杓づくりの手腕も認められたという。
その後、『小堀遠州(1579-1647)』は【黒田家初代/黒田正玄】に大名への仕官も薦めたが、それは【黒田家初代/黒田正玄】が固辞。
また『小堀遠州(1579-1647)』の《京都/伏見》にある屋敷の元へ寒暑飴雪をいとわず毎日通い「茶の湯」を学ぶ熱心な姿を当時の人々からは【日参の正玄】と呼ばれたという。
【柄杓師】としての地位を確立した後、『小堀遠州(1579-1647)』と繋がりの深い『大徳寺/百五十六世住持/江月宗玩(1574-1643)』の元に参禅していたこともあり『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』を紹介され『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の知遇を得、『大徳寺/百五十六世住持/江月宗玩(1574-1643)』や『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の柄杓を納めるようになる。
隠居後は《京都/愛宕郡白川村(現・京都市左京区北白川)》の《瓜生山》の麓に住み、「漢詩人」・「書家」として名高い『石川丈山(1583-1672)』と親交を結ぶ。
- 暖簾
-
現在【黒田家】に掛かっている暖簾【大津 茶ひしゃく屋 正玄】の字は『石川丈山(1583-1672)』の筆によるものと伝えられ、また『石川丈山(1583-1672)』の住んでいた《詩仙堂》には『黒田家八代/黒田正玄』の寄贈した「石灯籠」が残されている。
- 息子
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・長男の『正悦』は『小堀遠州(1579-1647)』の推薦で「広島藩士」となり、一時『安芸/広島藩主/浅野家』に仕えた『石川丈山(1583-1672)』の紹介で『浅野家』に茶堂として仕官。
・次男の『正圓』も『小堀遠州(1579-1647)』の推薦で《近江/膳所藩主/本多家》に仕官する、晩年に「官」を辞して《京都/油小路通二条》にて「茶の湯指南」となる。
・三男の『宗正』は了応二年(1653年)の二十七歳の時に『黒田家二代/黒田正玄』を継承。
- 享年
-
承応二年(1653年)没。享年七十六歳。
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- 黒田家二代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 寛永二年(1625年) ― 貞享四年(1687年) / 六十三歳
- 出自
-
『[父]黒田家初代/黒田正玄』の三男
- 名
-
[名]【宗正】【正玄】
- 師事
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『[父]黒田家初代/黒田正玄』
- 事績
-
『[父]黒田家初代/黒田正玄』には三人の男子があり、【三男/宗正】は了応二年(1653年)、二十七歳の時に【黒田家】の家督を継承し、【黒田家二代/黒田正玄】を襲名。
【黒田家二代/黒田正玄】は『小堀遠州(1579-1647)』の推挙もあって『徳川家三代将軍/徳川家光(1604-1651)』の【柄杓師】】として「御用柄杓師」を務める。
詳しい記録は残っていないが『黒田家五代/黒田正玄』までは『徳川将軍家』の御用を務め、『黒田家八代/黒田正玄』の幕末まで『徳川将軍家』との関係は続くこととなる。
当時の【柄杓師】としては他に『梶川宗吉(生年没不詳)』、『田中幽言(生年没不詳)』、『藤井源四郎(生年没不詳)』がある。
- 享年
-
貞享四年(1687年)没。享年六十三歳。
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- 黒田家三代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~ [号] 正斎
- 明暦二年(1656年) ― 享保二年(1717年) / 六十二歳
- 出自
-
『[父]黒田家二代/黒田正玄』の長男
- 名
-
[名]【弥助】【正玄】
[号]【正斎】
- 師事
-
『[父]黒田家二代/黒田正玄』
- 事績
-
『[父]黒田家二代/黒田正玄』の長男として生まれ【黒田家】の家督を継承し、【黒田家三代/黒田正玄】を襲名。
将軍家御用としては『徳川家/五代将軍/徳川綱吉(1646-1709)』の時代になり、『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』、『久田家三代/徳誉斎宗全(1647-1707)』の御用を務める。
またこの頃より「千家」へ正式に出入りするようになる。
宝暦元年(1704年)に【黒田家】の家督を長男『弥吉(黒田家四代/黒田正玄』』に譲り、隠居して『正斎』と名乗る。
享保二年(1717年)四月に《京都/室町通今出川》に転居。
- 享年
-
享保二年(1717年)没。享年六十二歳。
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- 黒田家四代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 元禄五年(1692年) ― 享保十六年(1731年) / 四十歳
- 出自
-
『[父]黒田家三代/黒田正玄』の長男
- 名
-
[名]【弥吉】【正玄】
- 師事
-
『[父]黒田家三代/黒田正玄』
- 事績
-
『[父]黒田家三代/正玄』の長男として生まれ、宝暦元年(1704年)、父『黒田家三代/黒田正玄』の隠居にともない十三歳の若さで【黒田家】の家督を継承し、【黒田家四代/黒田正玄】を襲名。
『徳川将軍家』、『千家』の御用を務める。
- 享年
-
享保十六年(1731年)没。享年四十歳。
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- 黒田家五代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~ [号] 正斎
- 宝永五年(1708年) ― 安永七年(1778年) / 七十一歳
- 出自
-
『[義父]黒田家四代/黒田正玄』の養子
- 名
-
[名]【才次郎】【正玄】
[号]【正斎】
- 師事
-
『[義父]黒田家四代/黒田正玄』
- 事績
-
『[義父]黒田家四代/黒田正玄』に子供がいなかったため、『[義祖父]黒田家二代/黒田正玄』の妻の実家『勝見五郎兵衛家』から養子に迎えられ【黒田家】の家督を継承し、【黒田家五代/黒田正玄】を襲名。
『徳川家第八代将軍/徳川吉宗(1684-1751)』、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』、『裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1719-1771)』、『武者小路千家七代/直斎堅叟宗守(1725-1782)』の御用を務める。
また【黒田家五代/正玄】の時代に《北小路室町(現・室町通今出川下ル)》の地に移る。
- 享年
-
安永七年(1778年)没。享年七十一歳。
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- 黒田家六代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~ [号] 弄竹斎・玄同
- 延享四年(1747年) ― 文化十一年(1814年) / 六十八歳
- 出自
-
『[父]黒田家五代/黒田正玄』の次男
- 名
-
[幼名]【正次郎】
[名]【弥吉】【正玄】
[号]【弄竹斎】【玄同】
- 師事
-
『[父]黒田家五代/黒田正玄』
- 事績
-
『[父]黒田家五代/黒田正玄』の長男として生まれ、安永七年(1778年)、父『黒田家五代/黒田正玄』の逝去により三十一歳の時に【黒田家】の家督を継承し、【黒田家六代/黒田正玄】を襲名。
《上京》の「町年寄(上席町役人)」を務めるなど京の町人の中でも重鎮であり、【柄杓師】としては『徳川家十代将軍/徳川家治(1737-1786)』、『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』、『裏千家九代/不見斎石翁宗室(1746-1801)』、『武者小路千家八代/一啜斎休翁宗守(1763-1838)』の御用を務める。
後に『徳川家十一代将軍/徳川家斉(1773-1841)』にお目見得の栄に浴したといわれている。
剃髪後は【弄竹斎】・【玄同】と号す。
『[父]黒田家五代/黒田正玄』、四十二歳の天明八年(1788年)の時「天明の大火」に遭遇、家屋敷を失うが、他の【職家】がそれまでの「屋敷」や「家伝」、「資料」などを焼失した家が多かったのに対し、【黒田家】は蔵だけは焼け残ったため、比較的古い資料を現代まで伝える結果となる。
- 享年
-
文化十一年(1814年)没。享年六十八歳。
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- 黒田家七代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 明和五年(1768年) ― 文政二年(1819年) / 五十二歳
- 出自
-
『井上家』の子
『[義父]黒田家六代/黒田正玄』の養子
- 名
-
[幼名]【弥三郎】
[名]【弥吉】【正玄】
- 師事
-
『[義父]黒田家六代/黒田正玄』
- 事績
-
『[義父]黒田家六代/黒田正玄』に実子がいなかったため『井上家』より養子に迎えられ、文化十二年(1815年)、四十七歳の時に【黒田家】の家督を継承し、【黒田家七代/黒田正玄】を襲名。
『[義父]黒田家六代/黒田正玄』に引き続き、《上京》の「町年寄(上席町役人)」を務め、『徳川家十一代将軍/徳川家斉(1773-1841)』、『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』、『裏千家十代/認徳斎柏叟宗室(1770-1826)』、『武者小路千家九代/好々斎仁翁宗守(1795-1835)』の御用を務める。
- 享年
-
文政二年(1819年)没。享年五十二歳。
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- 黒田家八代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 文化六年(1809年) ― 明治二年(1869年) / 六十一歳
- 出自
-
『[父]黒田家七代/黒田正玄』の長男
- 名
-
[幼名]【熊吉】
[名]【弥吉】【正玄】
- 師事
-
『[父]黒田家七代/黒田正玄』
- 門下
-
『滝野利助()』
- 事績
-
『[父]黒田家七代/黒田正玄』の長男として生まれる。
文政二年(1819年)『[父]黒田家七代/黒田正玄』逝去により十一歳の若さで【黒田家】の家督を継承し、【黒田家八代/黒田正玄】を襲名。
『徳川家十二代将軍/徳川家慶(1793-1853)』、『表千家十代/吸江斎祥翁宗左(1818-1860)』、『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』の御用を務める。
『黒田家六代/黒田正玄』から【黒田家八代/黒田正玄】にかけての三代は家業が最も安定した時代であり『黒田家六代/黒田正玄』、【黒田家八代/黒田正玄】ともに高い技量を持ち歴代の中でも特に優れた仕事を遺している。
安政六年(1859年)の五十一歳の折、養子である次代『黒田家九代/黒田正玄』が急逝したため一番弟子であった『利助(黒田家十代/黒田正玄)』を婿養子として迎え、【黒田家】の途絶を防ぐとともに幕末の動乱期に【柄杓師】の家を守るがその後は明治維新によって大得意先の「将軍家」の消滅という悲劇に遭う。
- 享年
-
明治二年(1869年)没。享年六十一歳。
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- 黒田家九代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 天保八年(1837年) ― 安政六年(1859年) / 二十三歳
- 出自
-
『[義父]黒田家八代/正玄』の養子
- 名
-
[幼名]【弥一郎】
[名]【弥吉】
- 事績
-
『[義父]黒田家八代/黒田正玄』の養子として【黒田家】に迎え入れられ、その後【黒田家】の家督を継承し、【黒田家九代/黒田正玄】を襲名。
「千家」に出入りするが『[義父]黒田家八代/黒田正玄』に先立って安政六年(1859年)に二十三歳の若さで早世。
- 享年
-
安政六年(1859年)没年。享年二十三歳。
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- 黒田家十代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 文政八年(1825年) ― 明治三十三年(1900年) / 七十六歳
- 出自
-
『[義父]黒田家八代/黒田正玄』の養子
- 名
-
[名]【利助】【正玄】
- 師事
-
『[義父]黒田家八代/黒田正玄』
- 門下
-
『浜田徳次郎()』
- 事績
-
【黒田家十代/黒田正玄】は『[義父]黒田家八代/黒田正玄』の『弟子』であり、既に結婚独立していたが安政六年(1859年)に『黒田家九代/黒田正玄』の早世にともない『滝野家』から『[義父]黒田家八代/黒田正玄』の娘婿に迎えられ、明治二年(1869年)の三十五歳の時、『[義父]黒田家八代/正玄』逝去により【黒田家】の家督を継承し、【黒田家十代/黒田正玄】を襲名。
(※【黒田家】の家督を継承時に妻子を離縁したという秘話が伝わっている。)
【黒田家十代/黒田正玄】の時代は明治維新を迎え「将軍家」の御用が無くなり、「茶の湯」をはじめとする伝統文化の衰退期であったため竹で生活用具を製作するなど家業の維持に苦心。
【黒田家十代/黒田正玄】は明治十四年(1881年)の六十六歳の時に隠居し【黒田家】の家督は長男『利助』が継承するが次男の『黒田宗傳』も家業を手伝う。(その後、弟『黒田宗傳』は明治二十九年(1896年)に分家することとなる)
- 菩提寺
-
【黒田家十代/黒田正玄】は本人の遺言により【黒田家】の「菩提寺」ではなく《修学院(現京都市左京区)》の実家の「菩提寺」である《禅華院》に筍型の墓石を築かれ、葬られる。
墓石の筍型は「竹のおかげで一生を過ごさせてもらった」という遺言によるという。
- 享年
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明治三十三年(1900年) / 七十六歳
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- 黒田家十一代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 明治二年(1869年) ― 明治四十四年(1911年) / 四十三歳
- 出自
-
『[父]黒田家十代/黒田正玄』の長男
『[次男]黒田宗傳』の兄
- 名
-
[幼名]【熊吉】
[名]【正玄】
- 師事
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『[父]黒田家十代/黒田正玄』
- 門下
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『黒田常次郎()』
『西川煤玄()』
『岡田康玄()』
『上田定次郎()』
『金子龍二()』
- 事績
-
明治維新直後に『[父]黒田家十代/黒田正玄』の長男として生まれ。
明治十四年(1881年)、『[父]黒田家十代/黒田正玄』の隠居にともない明治十六年(1883年)の十四歳の時に【黒田家】の家督を継承し【黒田家十一代/黒田正玄】を襲名。
『表千家十一代/碌々斎瑞翁宗左(1837-1910)』、『裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1719-1771)』、『武者小路千家十一代/一指斎一叟宗守(1848-1898)』の御用を務める一方で当時流行した洋風家具の製作などにも進路を見出した。
また明治十四年(1881年)に京都へ戻った文人画家『富岡鉄斎(1837-1924)』が【黒田家】から徒歩十分ほどのところに居を構えたことから両家の親交が始まり、『富岡鉄斎(1837-1924)』による茶席『虚心軒』の扁額などが遺っている。
- 享年
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明治四十四年(1911年) / 四十三歳
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- 黒田家十二代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 明治十三年(1880年) ― 昭和四十八年(1973年) / 九十四歳
- 出自
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『[夫]黒田家十一代/黒田正玄』の室
- 名
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[幼名]【タカ】
- 事績
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明治四十四年(1911年)、先代の『[夫]黒田家十一代/黒田正玄』が四十三歳で早世したため、『[夫]黒田家十一代/黒田正玄』の実弟『黒田常次郎』、『黒田弥五郎』、義息『斉木玄忠』に助力、後見されながら『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』、『裏千家十四代/無限斎碩叟宗室(淡々斎)(1893-1964)』、『武者小路千家十二代/愈好斎聴松宗守(1889-1953)』の御用を務め明治・大正・昭和の三時代にわたり家業を守る。
昭和十八年(1943年)に「政府認定/技術保存資格者」に認定。
昭和四十一年(1966年)【黒田家】の家督を次代『黒田家十三代/黒田正玄』に譲る。
昭和五十一年(1976年)四月二十八日「紺綬褒章」受章。
- 享年
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昭和四十八年(1973年)没。享年九十四歳。
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- 黒田家十三代 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~ [号] 弄竹斉玄督
- 昭和十一年(1936年) ― 平成二十九年(2017年) 七月二十四日 / 八十一歳
- 出自
-
- 名
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[名]【正春】
[号]【弄竹斉玄督(剃髪後)】
- 事績
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「早稲田大学第一文学部」卒業後、京都に戻り稼業に従事。
五年後の昭和三十八年(1963年)二十七歳の時に先代より代替わりの打診があるが一度はそれを固辞。
その三年後の昭和四十一年(1966年)三十歳の時に【黒田家】の家督を継承し、【黒田家十三代/黒田正玄】を襲名。
『表千家十四代/而妙斎宗左(1938-)』、『裏千家十五代/鵬雲斎汎叟宗室(1923-)』、『裏千家十六代/坐忘斎玄黙宗室(1956-)』、『武者小路千家十四代/不徹斎宗守(1945-)』の「好み物」を中心に竹の茶道具を製作。
平成二十六年(2014年)1月、長女『益代』に【黒田家】の家督を譲り、自身は剃髪し【弄竹斉玄督】と号す。
- 出仕
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昭和三十五年(1960年)、『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』の要請により【黒田家十三代/黒田正玄】をはじめ他の【職家】より『土田家十二代/土田友湖(1939-)』・『大西家十五代/大西浄心(1924-2002)』・『飛来家十五代/飛来一閑(1926-1981)』・『奥村家十二代/奥村吉兵衛(1934-)』と共に五人揃って出仕する事となる。
- 享年
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平成二十九年(2017年) 七月二十四日没。享年/八十一歳。
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- 黒田家十四代 [当代] 黒田 正玄 ~くろだ・しょうげん~
- 昭和四十二年(1967年) ― 年(年) / 歳
- 出自
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『[父]黒田家十二代/黒田正玄』の長女
- 名
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[名]【益代】
- 事績
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大学卒業後、『[父]黒田家十三代/黒田正玄』に師事し稼業に従事。
平成十八年(2006年)より千家に出仕。
平成二十六年(2014年)1月、『[父]黒田家十三代/黒田正玄』の剃髪により【黒田家】家督を継承し、【黒田家十四代/黒田正玄】を襲名。
【黒田家】初の女性当主となる。
- 享年
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