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千家十職 土風炉師 永樂善五郎

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  • ◆ 永楽家歴代 ◆
名/生没享年
初代
 西村 宗禅  ~にしむら・そうぜん~
生年不詳 ―永禄元年(1558年) 二月三日(※一説に三月二十一日) / 享年不詳  
二代
 西村 宗善(宗禅)  ~にしむら・そうぜん(そうぜん)~
生年不詳 ― 文禄三年(1594年) 十一月十一日 / 享年不詳  
三代
 西村 宗全  ~にしむら・そうぜん~
生年不詳 ― 元和九年(1623年) 二月三日 / 享年不詳  
四代
 西村 宗雲  ~にしむら・そううん~
生年不詳 ― 承応二年(1653年) 七月二十一日 / 享年不詳  
五代
 西村 宗筌(善四郎)  ~にしむら・そうせん(ぜんしろう)~
生年不詳 ― 元禄十年(1697年) 八月三日 / 享年不詳  
六代
 西村 宗貞  ~にしむら・そうてい~
生年不詳 ― 寛保元年(1741年) 四月二十六日 / 享年不詳  
七代
 西村 宗順  ~にしむら・そうじゅん~
生年不詳 ― 延享元年(1744年) 五月十三日 / 享年不詳  
八代
 西村 宗圓  ~にしむら・そうえん~
生年不詳 ― 明和六年(1769年) 十月十二日 / 享年不詳  
九代
 西村 宗巌  ~にしむら・そうがん~
生年不詳 ― 安永八年(1779年) 二月二日 / 享年不詳  
十代
 永楽 了全  ~えいらく・りょうぜん~
明和七年(1770年) ― 天保十二年(1841年) 閏正月十二日 / 七十二歳  
十一代
 永楽 保全  ~えいらく・ほぜん~
寛政七年(1795年) ― 嘉永七年(1854年) 九月十八日 / 六十歳  
十二代
 永楽 和全  ~えいらく・わぜん~
文政六年(1823年) ― 明治二十九年(1896年) 五月六日 / 七十四歳  
十三代
 永楽 宗三郎(回全)  ~えいらく・そうざぶろう(かいぜん)~
天保五年(1834年) ― 明治九年(1876年) 一月二十九日 / 四十二歳  
十三代
 西山 藤助(曲全)  ~にしやま・とうすけ(きょくぜん)~
文政二年(1819年) ― 明治十六年(1883年) 二月二十四日 / 六十五歳  
十四代
 永楽 得全  ~えいらく・とくぜん~
嘉永六年(1853年) ― 明治四十二年(1909年) 十月二十五日 / 五十七歳  
【十四代永楽得全 [室]】 
 永楽 妙全  ~えいらく・みょうぜん~
嘉永五年(1852年) ― 昭和二年(1927年) 十月一日 / 七十六歳  
十五代
 永楽 正全  ~えいらく・しょうぜん~
明治十三年(1880年) ― 昭和七年(1932年) 十二月二十八日 / 五十三歳  
十六代
 永楽 即全  ~えいらく・そくぜん~
大正六年(1917年) 七月八日 ― 平成十年(1998年) 五月三日 / 八十歳  
[当代]
十七代

 永楽 善五郎  ~えいらく・ぜんごろう~
昭和十九年(1944年) ―  


  • ◆ 永楽家 ◆

永樂善五郎の土風炉

三千家御用達の【土風炉/焼物師】として、「土風炉」、「茶碗」、「水指」などをはじめ代々御家元の「御好物」の製作などを行う【職家】

【永楽家】が現在の【永楽】を性としたのは明治時代であり、それ以前は【西村】の性を名乗っていた。

【永楽】という名は中国明王朝時代の優品を焼いた「永楽帝時代」に由来しており、【永楽家初代/西村宗禅】から【永楽家九代/西村宗巌】【西村】の姓を名乗り、主に【土風炉】を製作。
『永楽家十代/了全』以降は【永楽】の姓を名乗り、茶陶を制作、現在に至る。

現在の『千家十職』の中には同じく茶碗を作る茶碗師『楽家/樂吉左衛門』がいるが【永楽家】は主に伝世品の写しなどを作っており『樂焼』のみの『樂家』とは住み分けがなされている。

【永楽家】の祖先は《大和国・西京(現・奈良市西ノ京)》に居住する【土師師】であり、奈良の《春日社(春日大社)》の「斎器(供御器)」を制作していた家柄であると伝えられている。

【永楽家初代/西村宗禅】は『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の師である堺の『武野紹鷗(1502-1555)』の依頼で「紹鷗好み」の茶の湯用土風炉を焼き出してから土風炉作りを家業とするようになり、晩年には【土風炉師/善五郎】を名乗るようになる。

【永楽家二代/西村宗善】は《大阪/堺》に住み、【永楽家三代/西村宗全】以降は京都に定着、『細川三斎(1563-1646)』や『小堀遠州(1579-1647)』らの大名茶人の支持を得ている。

また【永楽家三代/西村宗全】が『小堀遠州(1579-1647)』の用命を受けた際に【宗全】の銅印を拝領したことから以後【永楽家九代/西村宗巌】まで作品に【宗全印】を使用している。

千家に出仕するようになったのは【永楽家十代/永楽了全】以降だと考えられ、【永楽家十一代/永楽保全】は文政十年(1827年)に、『紀州藩十代藩主/徳川治寶(1771-1853)』の別邸《西浜御殿》の「御庭焼」開窯に招かれ、作品を賞して【河濱支流(かひんしりゅう)】【金印】【永樂】【銀印】【永楽】の印を用いると共に【永楽家十二代/永楽和全】の代から【永楽】姓を名乗ることとなる。

また遡って【永楽家十代/永楽了全】【永楽家十一代/永楽保全】【永楽】の名で呼ばれている。


  • ◆ 印『河濱支流』 ◆

中国における陶磁器についての最初の歴史的記述『史記』にある
「瞬陶(ス)(二) 河濱(二)(一) 器皆不(二)苦歪(一)~中国の聖王といわれた瞬が華河賓に陶を焼いたところ、器はすべて歪まなかった~」
に由来する。


  • ◆ 歴代解説 ◆
    ― 目次 ー
  • ― 解説 ―

  • 永楽家初代 西村 宗禅 ~にしむら・そうぜん~
  • 生年不詳 ―永禄元年(1558年) 二月三日(※一説に三月二十一日) / 享年不詳
出自
《大和国/西京(現・奈良市西ノ京)》の人

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗禅】【宗印】【宗義】【寄翁】
[法名]【宗也】

事績
【永楽家】の家祖、【永楽家初代/西村宗禅】は大永年間(1521年-1528年)頃、《大和国/西京(現・奈良市西ノ京)》に住み《奈良/春日社(春日大社)》の【斎器(供御器)】を制作し業としていた。

【永楽家初代/西村宗禅】は『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の師である堺の『武野紹鷗(1502-1555)』の依頼で「紹鷗御好」の【茶の湯用/土風炉】を焼き出してから【土風炉】作りを家業とするようになり、晩年には【土風炉師/善五郎】を名乗るようになる。

天文二十三年(1554年)の『茶具備討集』にも
「風炉 奈良炉 銅風炉 頬風炉 当時数寄者の言う所 乳足 軸足」
と記されており【永楽家初代/西村宗禅】【土風炉】は俗に【奈良風炉】とも称し、【善五郎】の他に、【奈良風炉師】として『宗四郎』、『与九郎』、『勘太夫』の名が伝わる。

享年
永禄元年(1558年) 二月三日(※一説に三月二十一日)没。享年不詳。

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  • 永楽家二代 西村 宗善(宗禅) ~にしむら・そうぜん(そうぜん)~
  • 生年不詳 ― 文禄三年(1594年) 十一月十一日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家初代/西村宗禅』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗善】【宗禅】

事績
《大和国/西京(現・奈良市西ノ京)》から、《泉州/堺(現・大阪府堺市)》に移住。

当時の《堺》は、『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』をはじめ多くの茶の湯者を輩出し、「茶の湯」の中心地の観を呈していた頃であり、【永楽家二代/西村宗善】の《堺》への移住も、【土風炉師】としての当然のことであったとも考えられる。

【永楽家二代/西村宗善】は『[父]永楽家初代/西村宗禅』にもまして名手としての誉れも高く、貞亨元年(1684年)の『雍州府志』に
「風炉(中略)埴を埏てこれを造るは土風炉と号す元と南都宗善の造るところ上品と為す」
と記述されている。

また天保元年(1830年)に成立した『喜多村信節()』の著『嬉遊笑覧』にも
「土風炉は奈良をもととす基内宗善が造れるは稀に殊に勝れて茶人これを賞美す」
とあり、江戸時代後期にいたるまで、その声価の高かったことが知られている。

享年
文禄三年(1594年) 十一月十一日没。享年不詳。

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  • 永楽家三代 西村 宗全 ~にしむら・そうぜん~
  • 生年不詳 ― 元和九年(1623年) 二月三日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家二代/西村宗善』の子

[姓]【西村】
[名]【善五郎】
[号]【宗全】

事績
【永楽家三代/西村宗全】の代より【永楽家】は京都へと移り住むこととなる。

『陶工永楽家累代系統記』に
「宗全は泉州堺より京都に移り京都に初めて住せしなり」
と記されている。

京都での移住地は「《天神の辻子》(『職記』)」に
「《下京六条東洞院ノ辺 天神ノ図子》(『累世手続書』)」
と後の家伝由緒記にみえる。
(※当時の京の地誌などを参考にして居住地の記録を整理すると当初の屋敷工房は南北通では下京区の六条通から五条通の間、東西通では高倉通から東洞院通の間の間之町通の界隈に在ったと考えられる。)

『永楽家初代/西村宗禅』から【永楽家三代/西村宗全】に至り《奈良》から《堺》、そして《京都》へという移住は、「茶の湯」の中心地の変遷に照らしてみると、極めて興味深いものがある。

【永楽家三代/西村宗全】は『細川三斎(1563-1646)』や『小堀遠州(1579-1647)』らの大名茶人の支持を得ている。

また【永楽家三代/西村宗全】が『小堀遠州(1579-1647)』の用命を受けた際に【宗全】の銅印を拝領したことから以後、『永楽家九代/西村宗巌』まで作品に【宗全印】を使用している。

またこの間に作られた【土風炉】が、現在で言われる【宗全風炉】である。

享年
元和九年(1623年) 二月三日没。享年不詳。

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  • 永楽家四代 西村 宗雲 ~にしむら・そううん~
  • 生年不詳 ― 承応二年(1653年) 七月二十一日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家三代/西村宗全』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗雲】

事績
千家茶道との交流を深めるようになるのは【永楽家四代/西村宗雲】の時代よりと推定される。

【土風炉】をめぐり『抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の孫『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』から【永楽家四代/西村宗雲】【ふろのかた(切形)】が届けられるという『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』自筆の書状が【永楽家】に残されている。

またこの他にも『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』自筆の【土風炉切形】が軸装されて伝わっており『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』と【永楽家】との交流を裏付けしている。

寛永十五年(1638年)の序文をもつ『毛吹草』は、正保二年(1645年)に刊行された「俳諧書」だが、その中に【土風炉】が依然として《大和国》の特産であるとしつつも、京都市中でも盛んに製作されている様子を伝えている。

時代は『[父]永楽家三代/西村宗全』から【永楽家四代/西村宗雲】に移る時期にあったており、「伝統の奈良」⇔「新興の京都」と、競うように茶の湯者からの需要に応じていたものと思われる。

享年
承応二年(1653年) 七月二十一日没。享年不詳。

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  • 永楽家五代 西村 宗筌(善四郎) ~にしむら・そうせん(ぜんしろう)~
  • 生年不詳 ― 元禄十年(1697年) 八月三日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家四代/西村宗雲』の子

[姓]【西村】
[通称]【善四郎】
[号]【宗筌】

事績
【永楽家五代/西村宗筌】の時代に入ると、奈良と京都の【土風炉】の状況に変化が見られるようになる。

『貝原益軒(1630-1714)』が元禄九年(1696年)に著した『和州巡覧記』には 「風炉 今は西の京と云所に在る下手也」 と、奈良の【土風炉】の品質劣化が指摘されており、そのことは逆に京都の【土風炉】の評価をあげることになった。

元禄三年(1690年)は『利休百回忌』にあったており、利休回帰が叫ばれ、千家茶道が大きな普及を見せる時期でもあった。

そうした中で【土風炉師】としての【永楽家】の名は千家との交流の中で大いにあがったと推測される。

またそれを裏付けるように【永楽家】には『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』、『表千家五代/随流斎良休宗左(1650-1691)』、『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』の書付のある風炉の【切形帖】が残されている。

奈良屋
《京都/下京》に移住した【永楽家】【西村】性の他に江戸時代には屋号を先祖縁の【奈良屋】と号していた。

元禄十年(1697年)の『茶湯評林大成』には
「奈良風炉細工人 京東洞院とあひ町五条より四町下ル町 奈良屋宗全 親同善五郎 子」
【奈良屋】と号した【永楽家五代/西村宗筌】、『永楽家六代/西村宗貞』親子の名前が登場する。

このように『永楽家四代/西村宗雲』、【永楽家五代/西村宗筌】、『永楽家六代/西村宗貞』の時代の【永楽家】は『永楽家三代/西村宗全』以来の工房のあった《下京》において【土風炉制作】を続けており、各種の京の地誌、案内状にもその名前が登場するほどに京都でもよく知られた【土風炉師】となっていた。

享年
元禄十年(1697年) 八月三日。享年不詳。

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  • 永楽家六代 西村 宗貞 ~にしむら・そうてい~
  • 生年不詳 ― 寛保元年(1741年) 四月二十六日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家五代/西村宗筌』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗貞】

事績
先代『[父]永楽家五代/西村宗筌』が【永楽家】の家督を【永楽家六代/西村宗貞】に譲っていた貞保二年(1685)版の『京羽二重』の茶道・道具屋の項に
「奈良風炉屋 車屋町通五条上ル町 善五郎」
【永楽家】が紹介されている。

また元禄十年(1697年)の『茶湯評林大成』にも
「奈良風炉細工人 京東洞院と高倉あひ町五条より四町下ル町 奈良屋宗全親同善五郎」
と、【永楽家】【『奈良屋】を屋号としていたことと、『[父]永楽家五代/西村宗筌』、【永楽家六代/西村宗貞】の名が見える。

また【永楽家】がこの頃には、《京都/下京》にあったことがわかる。

享年
寛保元年(1741年) 四月二十六日没。享年不詳。

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  • 永楽家七代 西村 宗順 ~にしむら・そうじゅん~
  • 生年不詳 ― 延享元年(1744年) 五月十三日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家六代/西村宗貞』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗順】

事績
【永楽家七代/西村宗順】の時代になり【永楽家】は居地をそれまでの《京都/下京》から、千家にほど近い《京都/上京/古木町》辺りに移したと思われる。

この《京都/上京/古木町》は現在の地名に比定すると《京都市上京区寺ノ内通新町》にあたり《寺ノ内小川》の『表千家』、『裏千家』とは距離にして400メートルほどしか離れていないことがわかる。

また《京都/上京》に居住していることを示す初見史料は現在のところ【永楽家七代/西村宗順】が没した翌年の延享二年(1745年)版の『京羽二重』に
「奈良風炉所 上京古木町 善五郎」
とあるのがそれで「上京」とりわけ千家に近い場所への移住は、千家茶道との結びつきがいよいよ強くなったことをうかがわせる。

享年
延享元年(1744年) 五月十三日没。享年不詳。

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  • 永楽家八代 西村 宗圓 ~にしむら・そうえん~
  • 生年不詳 ― 明和六年(1769年) 十月十二日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家七代/西村宗順』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗圓】

事績
【永楽家】が《京都/上京》に住まいしていたことは、【永楽家八代/西村宗圓】の時代である宝暦十二年(1762年)の『京町鑑』にも
「古木町 奈良風炉師善五郎居宅あり宗全ともいふ」
と記されるとともに、《古木町》の名が【風炉】に由来すると記されており、【永楽家】の家職が町名の起こりとされるほど、その存在が広く知られるようになったのである。

また、この《古木町》には茶道具制作に関わる家が多く見られ、今日の【千家十職】でもある『指物師/駒沢利斎家』、『金物師/中川浄益家』もあった。
このうち『駒澤家』では『駒沢家四代/駒澤利斎』の時代に千家出入りの『指物師』としての地位が確立しており同様の動向が【永楽家】においてもみられていたことを物語っている。

十八世紀中頃から後半にかけての『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』の晩年から『表千家八代/啐啄斎件翁宗左(1744-1808)』の時代は御家元の「御好物」に対する人々の需要が高まりそのため御家元でも専門の【職家】を整備・構成していく時期にあたっており【永楽家】もその中で千家出入りの【土風炉師】となっていったことを示している。

享年
明和六年(1769年) 十月十二日没。享年不詳。

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  • 永楽家九代 西村 宗巌 ~にしむら・そうがん~
  • 生年不詳 ― 安永八年(1779年) 二月二日 / 享年不詳
出自
『[父]永楽家八代/西村宗圓』の子

[姓]【西村】
[通称]【善五郎】
[号]【宗巌】

事績
【永楽家九代/西村宗巌】【永楽家】の家督を継承して十年ほどで亡くなるが、『永楽家初代/西村宗禅』からこの【永楽家九代/西村宗巌】までその享年は明らかではない。

ただ【永楽家】【菩提寺】である『方然寺(現在は右京区嵐山に移転)』のもとの場所であった《寺町仏光寺上ル》の墓所には『永楽家十代/了全』の墓に南接して宝塔が建てられている。

また『京都名家墳墓録』には、
「歴代塋域は大和西の京に在り、此塔は其遥拝の為 建立せるものなり」
と記されている。

千家十職
近年の茶道史研究によれば宝暦八年(1758年)の『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578-1658)』の百年忌の時期には【千家職家】が成立する初期形態がみられるが、その後の安永九年(1780年)『茶器価録』では
・『塗師/中村宗哲』
・『茶碗師/楽吉左衛門』
・『指物師/駒澤利斎』
・『金物師/中川浄益』
・『釜師/大西清右衛門』
・『柄杓師/黒田正玄』など
今日の【千家十職】を構成する家々とともに【土風炉師/善五郎】【居職名居(名家)】として書かれている。

ちなみにこの時期は【永楽家九代/西村宗巌】の最晩年ないしは【永楽家九代/西村宗巌】没後、家職を一時継承し『尼宗全』と称された【永楽家九代/西村宗巌】の妻『清樹尼(1782年没)』の時代にあたっている。

享年
安永八年(1779年) 二月二日没。享年不詳。

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  • 永楽家十代 永楽 了全 ~えいらく・りょうぜん~
  • 明和七年(1770年) ― 天保十二年(1841年) 閏正月十二日 / 七十二歳
出自
『[父]永楽家九代/西村宗厳』の子

[通称]【善五郎】
[号]【了全】
[法名]【我此士斎了全居士】

師事
[陶技]『樂家九代/楽了入(1756-1834)』

事績
【永楽家十代/永楽了全】以降の【永楽家】はいよいよ茶陶の分野にも携わることとなる。

安永八年(1779年)、【永楽家十代/永楽了全】は九歳の折に『[父]永楽家九代/西村宗厳』を、また十二歳の折に『[母]清樹尼(1782年没)』を失っている。

さらに天明八年(1788年)の「天明の大火」に罹災するなど若年で大きな苦労を味わい、ことに「天明の大火」によって家屋敷はもとより、代々襲用した【宗全印】や家伝の記録類も焼失してしまうこととなる。

その後、【永楽家十代/永楽了全】は『樂家九代/楽了入(1756-1834)』のもとに通い陶技を習得する一方、『樂家』に近い《油小路一条下ル油橋詰町》に家を再興している。

文化十四年(1817年)十一月。四十七歳で剃髪し、『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775-1825)』より【了全】の二字を受け、【永楽家】の家督を『[養子]永楽家十一代/永楽保全』に譲った。

【永楽家十代/永楽了全】は、『永楽家十一代/永楽保全』という立派な後継者に恵まれ、『三千家』、『三井家』、『紀州徳川家』などの庇護と後援を得て、幸せな晩年を過ごしたとされる。

備考
三千家の【職家】として働き、また『三井家』にも出入りをする一方、『紀州/徳川家/徳川治宝候』の知遇を得て数多くの注文を賜り、また作品に押す【印】を拝領している様子が、『草間直方()』の『茶器名物図櫜』に記されている。

さらに同書からは、『樂家九代/楽了入(1756-1834)』の世話を受けた関係上、造る品々は【樂家】の家業の邪魔にならないよう心がけていたことがうかがえる。

作風
【永楽家十代/永楽了全】は生来器用な人で、【土風炉】の他に「火鉢」、「灰器」、「火入」などを製作。
また【交趾釉】を研究し「向付」や「香炉」、「花入」なども造っている。

剃髪隠居後の作風は、以前にも増し多彩になり、特に『[養子]永楽家十一代/永楽保全』が成人してからの作品には、【合作】ではないかとうかがわせる作品も多く、作風変遷の様子が見られる。

そして、最晩年の作品には【了全】の印が捺され箱書きされていても、『[養子]永楽家十一代/永楽保全』の手になるとはっきり書かれた作品もある。

しかしながらこれらの作品は【了全】の印が捺されているかぎり、思いをこめて制作された『[養子]永楽家十一代/永楽保全』の作品と受け止められることができる。

このような『[養子]永楽家十一代/永楽保全』の力を借りての作風の拡がりは【永楽家十代/永楽了全】自身の茶陶への進出であり、さらには【永樂家】【土風炉師】にとどまらない活動を拡げていく大きな転機となった。

享年
天保十二年(1841年) 閏正月十二日没。享年七十二歳。

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  • 永楽家十一代 永楽 保全 ~えいらく・ほぜん~
  • 寛政七年(1795年) ― 嘉永七年(1854年) 九月十八日 / 六十歳
出自
京都『沢井家』の出身 『[養父]永楽家十代/永楽了全』の養子
『[長男]永楽家十二代/永楽和全』の父
『[養子]永楽家十三代_永楽宗三郎(回全)』の養父

[幼名]【千太郎】
[通称]【善五郎】【善一郎】
[号]【保全】【陶鈞軒】
[法名]【陶鈞軒安誉保全居士】

師事
『人形屋市右衛門()』
『土師師山梅()』
『広瀬玄恭()』
[蘭学]『新宮涼庭((1787-1854)』
[画]『狩野永岳(1790-1867)』『幡崎鼎(1807-1842)』
[和歌]『香川景垣(1823-1865)』

事績
寛政七年(1795年)に京都の織家【沢井家】に生まれたと伝えられている。

幼少にして《東洞院二条》の百足屋『木村小兵衛(小左衛門とも)』という陶器の釉薬や絵具を扱っていた「絵具屋」に奉公し、その後《大徳院/黄梅院》の『大綱宗彦(1772-1860)』和尚のもとに渇食として入り、文化四年(1807年)十二歳の頃、『大綱宗彦(1772-1860)』和尚と『木村小兵衛』の仲介により、『永楽家十代/永楽了全』の養子に迎えられる。

生来、非常に研究熱心で、かつ孝心も深いものがあり、茶の湯は文化八年(1811年)に『久田家七代/皓々斎維妙宗也(1767-1819)』のもとに入門し、陶技を《粟田口》の『岩倉家』・『宝山家』に学び、土器師『山梅』の元にも通っている。

書は『松波流』、画を『狩野永岳(1790-1867)』、歌書を『香川景恒(1823-1865)』、蘭学を『新宮涼庭(1787-1854)』・『幡崎鼎(1807-1842)』にそれぞれ学んだと伝えられる。

『[養父]永楽家十代/永楽了全』が《油小路一条/油橋詰町》に屋敷を移住した二年後、文化十四年(1817年)『[養父]永楽家十代/永楽了全』の隠居にともなって二十二歳で【永楽家】の家督を継承し【永楽家十一代/永楽善五郎】を襲名。

【善五郎】を襲名した年に妻を娶り、一女をもうけるがその後、妻が亡くなり、文政六年(1823年)、『木村小兵衛』の娘を妻に迎え、長男『仙太郎(のちの『永楽家十二代/永楽和全』)』をもうけている。

また天保十四年(1843年)七月、『天保の改革』による『奢侈禁止令』では陶磁器の分野にも及び【永楽家十一代/永楽保全】の作陶にも規制が加わった。

そのため【永楽家十一代/永楽保全】は四十八歳の頃に隠居することを余儀なくされ『表千家十代/吸江斎祥翁宗左(1818-1860)』らと相談のもと【永楽家】の家督を『[長男]永楽家十二代/永楽和全』に譲り自らは【善一郎】を名乗り一線を退いた。

しかしこの苦境もほどなく改革を行った実行者『水野忠邦(1794-1851)』の失脚により禁令は解消したためその後、次第に円熟した【永楽家十一代/永楽保全】は独自の陶技冴える作品を制作した。

【永楽家十一代/永楽保全】は弘化四年(1847年)、親友である塗師『佐野長寛(1794-1856)』の次男『宗三郎(十三代_永楽宗三郎(回全))』を養子に迎え、『永楽家十二代/永楽和全』の義弟としたことが【永楽家十一代/永楽保全】の後半生に大きな影を落とす。

【永楽家十一代/永楽保全】は、『[長男]永楽家十二代/永楽和全』を長とする【善五郎家】と『宗三郎(十三代_永楽宗三郎(回全))』を長とする【善一郎家】をたてようとしたがこれにより『[長男]永楽家十二代/永楽和全』との間に不和が生じ、遂には【永楽家十一代/永楽保全】は嘉永三年(1850年)に京都を離れ江戸に向かった。

だが、《江戸》で志かなわず、翌嘉永四年(1851年)『大綱宗彦(1772-1860)』和尚と『木村小兵衛()』の意をいれて帰西したが京都には戻らず《大津》にとどまり、《三井寺/円満院門跡》の「御用窯」である【湖南焼(長等山焼・三井御浜焼ともいう)】を開窯。

また嘉永五年(1852年)、『高槻藩主/永井直輝候(1827-1874)』に召されて【高槻窯】を築き、数ヶ月の短期間のうちに、「祥瑞写」・「染付写」・「呉須赤絵写」などの作品を制作した。

『青木木米(1767-1833)』、『仁阿弥道八(1783-1855)』とともに【幕末京焼の三大名工】と謳われた【永楽家十一代/永楽保全】であったが、その晩年は、前半生に比べて不遇を極め、オランダの白釉の研究のために財政的にも困窮し、『[長男]永楽家十二代/永楽和全』とは不和のまま、《湖南》でその生涯を終えている。

印・号
文政十年(1827年)七月には、『越前守/藤原光寧』から(1827年)、【保全】の名を受けている。

文政十年(1827年)冬、『表千家十代/吸江斎祥翁宗左(1818-1860)』、『樂家十代/楽旦入(1795-1854)』とともに『紀州徳川/徳川治宝候(1771-1853)』に召されて同地に赴き紀州御庭焼【偕楽園焼】に従事、約二ヶ月の滞在の後、【河濱支流の金印】【永樂の銀印】を賜るが、【永楽家十一代/永楽保全】はこの印を自身の拝領とはせず「『[養父]永楽家十代/永楽了全』とともに排領した」と書き残している。
そしてこれを契機として【永楽家】では【永楽】【陶号】として使用することになる。

【永楽家十一代/永楽保全】の作陶は当主として【善五郎】を名乗った時期、家督を『[長男]永楽家十二代/永楽和全』に譲り【善一郎】と称した時期、そして晩年の【保全】の号を専ら用いた時期に区別して考えることが出来る。
弘化三年(1846年)には、『近衛家』に伝わる【揚名炉】を写して『鷹司()』公より【陶鈞軒】の号を賜り、のちには【陶鈞】の印も拝領している。

さらに『有栖川宮幟仁親王(1813-1886)』からは【以陶世鳴】の染筆を与えられた。

作風
初期の作陶は千家や豪商『三井家』や『鴻池家』など親交のあった家々に秘蔵されていた名品に接し、その写しを製作することに始まったと推測され伝統的な京焼陶家である《三条粟田》の『岩倉山家』、『宝山家』などに出向き陶技を修練している。

【善五郎】時代の作陶は「染付」・「交趾」・「金襴手」などがあり、その技法はすでに完成の域に達している。

【染付】では「祥瑞」・「古染付」・「安南写」などがみられ、【交趾】では文様の輪郭を浮線で区切った法花技法を取り入れている。また【金襴手】では金泥を用い針彫り技法を行っているところに特色がある。

『野々村仁清(生没年不詳)』の作風に倣った色絵茶碗をはじめ「交趾」、「金襴手」の作品にも【保全スタイル】と呼びうる優美な作風が確立され【永楽家十一代/永楽保全】の生涯で最も充実した作品が生まれたのは晩年の【善一郎】時代である。

享年
嘉永七年(1854年) 九月十八日没。享年六十歳。

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  • 永楽家十二代 永楽 和全 ~えいらく・わぜん~
  • 文政六年(1823年) ― 明治二十九年(1896年) 五月六日 / 七十四歳
出自
『[父]永楽家十一代/永楽保全』の長男
『[義弟]西村宗三郎(永楽家十三代/回全)』の義兄

[幼名]【千太郎】
[通称]【善五郎】
[号]【耳聾軒】【和全】
[法名]【耳聾軒目通和全居士】

門下
『木崎専右衛門()』
『大蔵清七()』
『油屋仁作()』

事績
『[父]永楽家十一代/永楽保全』と並ぶ【永楽家】の名工として知れ渡るが【永楽家十二代/永楽和全】の生涯は『[父]永楽家十一代/永楽保全』にも増して波乱に富んだものであった。
『[父]永楽家十一代/永楽保全』が天保十四年(1843年)に【善一郎】を名乗り隠居したため、弱冠二十一歳にして【善五郎】を襲名。
二十五歳の折に酒造業を営んでいた『木屋久兵衛()』の娘『古宇()』を妻に迎えている。

『[義弟]西村宗三郎(『永楽家十三代/回全』)』との問題から『[父]永楽家十一代/永楽保全』と不和になったが、『[父]永楽家十一代/永楽保全』不在の間も、『[義弟]西村宗三郎(『永楽家十三代/回全』)』とともに家業を続け、【善一郎家】との統合をはかった。

嘉永六年(1853年)三十歳の折、長男『常次郎(後の『永楽家十四代/永楽得全』)』が生まれる。

明治四年(1871年)には家督を長男『常次郎(後の『永楽家十四代/永楽得全』)』に譲り、「戸籍法」の制定により、正式に性を【永楽】とした。

その後の「明治維新」により大きく時代がかわり、茶道世界も様相が大きくかわる中で、時代に即応した西洋的な作品(コーヒー碗・スープ皿など)の製作も手がけ、柔軟に作品を生み出していった。

明治十五年(1882年)頃、妻『古宇()』を亡くし、耳が聾したために自ら【耳聾軒】と号したが、実際に耳を病んでいたか否かは不明である。

作風
【永楽家十二代/永楽和全】の作陶期間は下記のように大きく区分することができる。
1.幕末の嘉永五年(1852年)~慶応二年(1866年)にかけて『野々村仁清(生年没不詳)』ゆかりの御室に本格的な登窯を築いての【御室窯時代】

2.『加賀大聖寺藩主』に招かれ慶応二年(1866年)~明治三年(1870年)まで続けられた《加賀/山代》での作陶【九谷窯時代】

3.明治四年(1871年)性を【西村】から【永楽】に改姓、同時に家督を長男『常次郎(後の『永楽家十四代/得全』)』に譲り【善一郎】を称して以後明治五年(1872年)~明治十年(1877年)まで『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』の高弟『鈴木利蔵(岡崎の豪商)』を頼っての《三河/岡崎》での作陶【岡崎窯時代】

4.明治十五年(1882年)『永楽家十代/永楽了全』以来の旧宅があった《京都/油小路一条》の地を売却して、《京都/東山/下河原鷲尾町(洛東高台寺の菊溪川のほとり)》、明治十八年(1885年)にはさらに《祇園花見小路》の「有楽館」、さらに《建仁寺/塔頭/正伝院》に居を移した晩年の作陶【菊谷窯時代】

【永楽家十二代/永楽和全】は二十歳で早くも『[父]永楽家十一代/永楽保全』を感嘆させる陶才を発揮し【御室窯時代】には「呉須赤絵」・「古染付」・「祥瑞」・「金襴手」など父『永楽家十一代/保全』以来の【善五郎家】の作風を完全に体得しており、ことに「赤絵」・「祥瑞」・「金襴手」の写しでは『[父]永楽家十一代/永楽保全』以上に本歌に迫るものがある。

こうした「写し物」に加えて新規の作風の創造にも【永楽家十二代/永楽和全】の名工としての評価があり【御室窯時代】には、器面に布をあてがい、「絵付」を行う独自の上絵付の技法【布目手】【織紋手】を創案している。
この技法は今日も【永楽家】の伝統として受継がれている。

また【九谷窯時代】【金箔焼付技法】による【赤絵金彩(金襴手)】などは【永楽家十二代/永楽和全】ならではの陶技が駆使されている。 【岡崎窯時代】には茶の湯衰微のなか日常食器を量産し時勢への対応も見せている。

晩年の【菊谷窯時代】には『尾形乾山(1663-1743)』を追慕した作風を発表している。

しかし晩年の作風においてより【永楽家十二代/永楽和全】の茶陶の新機軸として注目されるのは単純化された斬新な意匠と華麗な色彩に特色をもつ【仁清写】である。

その後は明治茶道界の復興の一翼を担った「神前」・「仏前」での「献茶」を契機にして流行していく「大寄せの茶会」にふさわしい意匠を目標とした創意がみられ、それまでの少人数の茶事で用いられることを前提とした茶陶の意匠を【永楽家十二代/永楽和全】は大胆に変更し茶会形式の変化に即応した近代の茶陶を創案したと考えられる。

この【永楽家十二代/永楽和全】の作風は『[父]永楽家十一代/永楽保全』によって確立された「保全スタイル」の作風と共にその後の新しい【永楽善五郎】の茶陶様式の基調となって継承されていくこととなる。

作風
法名の【耳聾軒目通和全居士】【永楽家十二代/永楽和全】と眤懇であった『建仁寺第四代管長/黙雷宗淵(1854-1930)』によって付けられたもので、遺言によって使用の【印】とともに《京都/高台寺》に葬られた。

享年
明治二十九年(1896年) 五月六日没。享年七十四歳。

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  • 永楽家十三代 永楽 宗三郎(回全) ~えいらく・そうざぶろう(かいぜん)~
  • 天保五年(1834年) ― 明治九年(1876年) 一月二十九日 / 四十二歳
出自
『塗師/佐野長寛(1794-1856)』の次男
『[養父]永楽家十一代/永楽保全』の養子

[名]【善次郎】【宗三郎】
[号]【回全】【和全】
[法名]【柳鶯軒西園宗範居士】

師事
『[養父]永楽家十一代/永楽保全』

事績
天保五年(1834年)に『塗師/佐野長寛(1794-1856)』の次男として生まれた【永楽家十三代/永楽回全】は、弘化四年(1847年)に『永楽家十一代/永楽保全』の養子に迎えられ、『[養父]永楽家十一代/永楽保全』の「代作」や「代筆」、また『永楽家十二代/永楽和全』の【御室焼】【九谷焼】の改良などに勤めた。

嘉永二年(1849年)に『永楽家十二代/永楽和全』の後嗣となったが、のちに分家して【西村宗三郎】と称す。

明治九年(1876年)大阪にて急逝、【永楽家】と同じ墓所に祀られている。

永楽家十三代/永楽善五郎
明治十六年(1883年)に『永楽家十四代/永楽得全』は家系の整理を行い、明治九年(1876年)に大阪で急逝した『永楽家十二代/和全』の義弟【西村宗三郎(『永楽家十三代/回全』)】および『永楽家十一代/永楽保全』、『永楽家十二代/永楽和全』、『永楽家十四代/永楽得全』の三代の作陶を支え続けた『西山藤助(永楽家十三代/曲全)』を【永楽家】の家譜に【十三代/善五郎】として加え、両名の功績に報い自らは『十四代/永楽善五郎』となっている。

享年
明治九年(1876年) 一月二十九日没。享年四十二歳。

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  • 永楽家十三代 西山 藤助(曲全) ~にしやま・とうすけ(きょくぜん)~
  • 文政二年(1819年) ― 明治十六年(1883年) 二月二十四日 / 六十五歳
出自

[名]【西山藤助】
[号]【陶甫】【回全】
[法名]【孤楽軒不共曲全居士】

師事
『永楽家十一代/永楽保全』

事績
八歳の時より『永楽家十一代/永楽保全』に養われ『永楽家十一代/永楽保全』、『永楽家十二代/永楽和全』の三代にわたって【轆轤師】を勤め、晩年には【職場の隠居】と呼ばれたという。

また『永楽家十四代/永楽得全』の《加賀》行きや【御室窯】にも従い【永楽家】に尽力。

永楽家十三代/永楽善五郎
明治十六年(1883年)に『永楽家十四代/永楽得全』は家系の整理を行い、明治九年(1876年)に大阪で急逝した『永楽家十二代/和全』の義弟『西村宗三郎(『永楽家十三代/回全』)』および『永楽家十一代/永楽保全』、『永楽家十二代/永楽和全』、『永楽家十四代/永楽得全』の三代の作陶を支え続けた【西山藤助(永楽家十三代/曲全)】【永楽家】の家譜に【十三代/善五郎】として加え、両名の功績に報い自らは『十四代/善五郎』となっている。

享年
明治十六年(1883年) 二月二十四日没。享年六十五歳。

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  • 永楽家十四代 永楽 得全 ~えいらく・とくぜん~
  • 嘉永六年(1853年) ― 明治四十二年(1909年) 十月二十五日 / 五十七歳
出自
『[父]永楽家十二代/永楽和全』の子

[名]【常次郎】
[通称]【善五郎】
[謚号]【得全】
[法名]【守甫軒温誉良円得全居士】

事績
『[父]永楽家十二代/永楽和全』は明治四年(1871年)に家督を息子の【常次郎】に譲り、【常次郎】は十九歳で【永楽家十四代/永楽善五郎】を襲名。

明治維新後の「茶の湯」衰微に直面し、明治七年(1874年)から明治十年(1877年)にかけて【永楽家】は家業の維持さえおぼつかない窮乏の極めに陥っている。
こうしたなか『[父]永楽家十二代/永楽和全』は《三河/岡崎》へ作陶に出かけ窮状からの脱却をはかるために尽力、一方【永楽家十四代/永楽得全】も明治の陶家として【永楽家】を再興するため懸命の努力を行っている。

明治十年(1877年)八月には債主への借金返済への道を開くため【永楽家】の「累世(歴代)」の事績を記述し陶家としての地位を明らかにし、京都で一時期中断した【永楽家】の作陶【素焼丸窯】の再開を裁判所に願い出ている。その際【累世手続書】を提出し家業再興の承認を受けている。

こうした最中にも【永楽家十四代/永楽得全】は「明治六年(1873年)ウィーン万国博覧会」、「明治九年(1876年)フィラデルフィア万国博覧会」、「明治十一年(1878年)パリ万国博覧会」などの海外の博覧会への積極的な出品を繰り返し、「明治四年(1871年)第一回京都博覧会」をはじめとする国内での各博覧会への参加、「明治八年(1875年)四回京都博覧会」の「品評人(審査員)」に就任するなど明治の陶磁近代化運動にも積極的に参画している。

さらには『三井家』や『鴻池家』などの財界人の支援を得るなどの行動を起こしているがこれらは【永楽家十四代/永楽得全】の目指した【永楽家】の近代陶工家への脱皮に向けての具体的な動向であった。

明治十五年(1882年)三十歳の時、【永楽家十四代/永楽得全】は《油小路一条》の『永楽家十代/永楽了全』以来の旧宅を売却し、『[父]永楽家十二代/永楽和全』ともども《東山/下河原鷲尾町》に移住しているがここでは千家茶道の復興再建のために逸品的な茶陶の製作に加えて、【永楽家】の家系維持のため日常飲食器を製作している。

明治三十六年(1903年)五月、『[祖父]永楽家十一代/永楽保全』の五十回忌にあたり【永楽家十四代/永楽得全】は、その追悼碑を《寺町/法然寺(現・右京区)》に建立し【永楽家】の来歴を刻んでいる。

その後、『三井家』の要請を受け、《神奈川/大磯別邸》に窯を築き、茶陶制作を楽しみに準備をしていた明治四十二年(1909年)、【永楽家十四代/永楽得全】は急逝。

『[祖父]永楽家十一代/永楽保全』、『[父]永楽家十二代/永楽和全』に比して【永楽家十四代/永楽得全】の茶陶作品は「茶道」の世界においてはさほど評価されていないようであるが貧困時代にも進取の気風を失わず意匠、陶技に優れ男性的ともいえる独自の風格を作陶に表現し、その中で『[祖父]永楽家十一代/永楽保全』、『[父]永楽家十二代/永楽和全』とはまた違った近代的な作風を発表した【永楽家十四代/永楽得全】については改めて評価すべき段階に至っている。

作風
【永楽家十四代/永楽得全】の性格は『[父]永楽家十二代/永楽和全』より『[祖父]永楽家十一代/永楽保全』に似た名人気質であったといわれ、また酒に親しみ豪放磊落であり作品にも表れている。

ことに『尾形乾山(1663-1743)』を深く追慕した【老松茶碗】は野趣に富んだ洒脱な作振りの逸品である。
また斬新な絵付も【永楽家十四代/永楽得全】の作風の特徴でアメリカの博覧会に出品したという箱書がある。

備考
明治十五年(1882年)頃、『[父]永楽家十二代/永楽和全』の移住に従って《京都/高台院》近くに移ったある日、【永楽家十四代/永楽得全】はアメリカ人学者『エドワード・S・モース(1838-1925)』の訪問を受けたことがあった。

日本有数の陶工の一人である【永楽家】を訪問した『エドワード・S・モース(1838-1925)』は、
『挽茶と菓子とが供され、永楽は非常に注意深く私の質問に耳を傾けた後、彼は十三代目にあたるその歴史をすっかり話して聞かせた』
と、その著書『日本その日その日』に記している。

享年
明治四十二年(1909年)十月二十五日没。享年五十七歳。

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  • 十四代永楽得全 [室] 永楽 妙全 ~えいらく・みょうぜん~
  • 嘉永五年(1852年) ― 昭和二年(1927年) 十月一日 / 七十六歳
出自
『[夫]永楽家十四代/永楽得全』の室

[名]【悠】
[法名]【喜甫庵良誉温室妙全禅定尼】

事績
【お悠さん】の名で知られ【永楽家十四代室/永楽妙全】は嘉永五年(1852年)に《京都府/長岡京市》に生まれ、二十歳の折に『[夫]永楽家十四代/永楽得全』に嫁した。

その後の明治四十二年(1909年) 『[夫]永楽家十四代/永楽得全』の没後【永楽家】の家業は妻である【悠】の手にゆだねられた。

【永楽家十四代室/永楽妙全】【永楽家】の歴代の中には入っていないが経済的に恵まれていなかった『[夫]永楽家十四代/永楽得全』の妻として貧困の中【永楽家】を支え、『[夫]永楽家十四代/永楽得全』没後はそれまで親しんでいた「茶の湯」、「和歌」も止め【永楽家】の家計を維持することに専念している。

明治四十二年(1909年)から昭和二年(1927年)までの十九年間にわたり家業を継承し、『[夫]永楽家十四代/永楽得全』の甥にあたる『治三郎(永楽家十五代/永楽正全)』と共に現在の【永楽家】の基礎を築いた。

その後、茶道界も新しい隆盛の時を迎え『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』の「御好物」をはじめ各家元より数多くの茶陶の注文を受けるようになり【永楽家】の窮乏も終わりをつげ【永楽家十四代室/永楽妙全】の晩年には【永楽家】は名実ともに再興をとげている。

その後の昭和三年(1828年)には剃髪隠居して『[夫]永楽家十四代/永楽得全』の甥である『治三郎』が『永楽家十五代/永楽善五郎』を襲名する計画を進めていたが昭和二年(1927年)に没した。

明治四十三年(1910年)に『三井高保(1850-1922)』より【悠】の印を拝領し、大正三年(1914年)には『三井八郎右衛門高棟翁(1857-1948)』より【妙全】の号と【一軸】を賜る。

享年
昭和二年(1927年) 十月一日没。享年七十六歳。

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  • 永楽家十五代 永楽 正全 ~えいらく・しょうぜん~
  • 明治十三年(1880年) ― 昭和七年(1932年) 十二月二十八日 / 五十三歳
出自
『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』の甥
『[叔母]永楽家十四代室/永楽妙全』の甥

[本姓]【山本治三郎】
[号]【正全】【隠全】
[法名]【陶々軒謙誉温厚正全居士】

師事
『[叔母]永楽家十四代室/永楽妙全』

事績
【山本治三郎】は十八歳で縁家の【永楽家】に入り、『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』のもとで轆轤、陶技を学び『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』の没後は『[叔母]永楽家十四代室/永楽妙全』を助けて作陶の実際を担った。

『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』没後、【永楽家】の家督を継承したのは『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』の妻『[叔母]永楽家十四代室/永楽妙全』であるが作陶の実際を担当したのは『永楽家十四代/永楽得全』の甥【治三郎】であった。

また温厚篤学の人であったといわれ自ら【隠全】とも称していた。

大正時代の初年に《信楽》へ行き、わびた「焼締め」の「信楽焼」や「伊賀焼」を研究する傍ら『永楽家十一代/永楽保全』、『永楽家十二代/永楽和全』の作風を正統に継承した【金襴手】【祥瑞交趾布目手】などの精巧な茶陶作品を残している。

【永楽家十五代/永楽正全】【永楽家】の家譜において【永楽家十五代/永楽善五郎】となったのは昭和二年(1927年)に『永楽家十四代室/永楽妙全』が没して以後、昭和七年(1932年)に自ら死去するまでのわずか五年間であったが大正、昭和の茶道隆盛のなかで【永楽家】様式を受継ぎ、そこに洗練された古典美をあらたに茶陶に表現した点において【永楽家】の作陶史に新しい一ページを加えたといえる。

明治四十二年(1909年)の『[叔父]永楽家十四代/永楽得全』の逝去から数えて二十四年、その内の十九年間は『[叔母]永楽家十四代室/永楽妙全』とともに【永楽家】の存続に尽くしたがあまりにも早い他界であった。

『建仁寺第四代管長/黙雷宗淵(1854-1930)』より【正全】の号を受ける。

享年
昭和七年(1932年) 十二月二十八日没。享年五十三歳。

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  • 永楽家十六代 永楽 即全 ~えいらく・そくぜん~
  • 大正六年(1917年) 七月八日 ― 平成十年(1998年) 五月三日 / 八十歳
出自
『[父]永楽家十五代/永楽正全』の長男
『永楽家十四代室/永楽妙全』の養嗣子

[幼名]【茂一】
[法名]【陶軒院幸譽即全居士】

事績
小学校卒業後、「京都市立美術工芸学校/図案科」に学び将来の作陶に備えていた最中の昭和七年(1923年)に先代『[父]永楽家十五代/永楽正全』が急逝、昭和十年(1935年)に十八歳で【永楽家十六代/永楽善五郎】を襲名。

以後平成十年(1998年)に隠居して【即全】を号するまでの六十余年にわたり【永楽家】の当主として活動、当初は三千家の家元、『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』の「御好物」の製作を行い昭和十二年(1879年)、『表千家十二代/惺斎敬翁宗左(1863-1937)』の没後は『表千家十三代/即中斎無盡宗左(1901-1979)』と共に戦前、戦後の時代を茶陶製作に邁進した。

昭和十二年(1937年)に『三井八郎右衛門高棟翁(1857-1948)』から陶用の【銀印】を賜り、『三井八郎右衛門高棟翁(1857-1948)』の隠居に伴い、『[祖父]永楽家十四代/永楽得全』の果たせなかった《神奈川/大磯》の別荘「城山荘」に窯を築き、終戦頃まで月に一、二度出向いて作陶を続けた。

その中で「色絵」、「交趾」、「金襴手」などの「香炉」や「花入」を手がけ、また同時に『三井家』に伝来する「茶入」、「茶碗」などの古器名品を研究する機会を得、その後の茶陶作品を大きく飛躍させた。

昭和十八年(1943年)には、戦時下において伝統的な工業技術を提供するため選定された【工芸技術保存資格者】に認定。

そして昭和三十三年(1958年)、【千家十職】の展覧会である【再興十備会】が開催され、以後三年ごとに開かれて現在に至る。

その後、戦後物資の貧しい中で作陶を再開した【永楽家十六代/永楽即全】は茶道界の復興とともに現代に生きる茶陶を信念として製作を行うかたわら昭和三十五年(1960年)には、『楽家十四代/楽覚入(1918-1980)』、『二代/宮永東山(1907-1995)』、『宇野宗甕(1888-1973)』らとともに【京都伝統陶芸家協会】を結成、【会長】として伝統陶芸の発展に尽力。

昭和三十九年(1964年)には『楽家十四代/楽覚入(1918-1980)』と二人で【寿楽会】を開催。

また昭和五十四年(1979年)には『楠部彌弌(1897-1984)』、『六代/清水六兵衛(1901-1980)』、『近藤悠三(1902-1977)』、『楽家十四代/楽覚入(1918-1980)』と【爽風会茶碗展】と題した茶碗だけの展覧会を催すなど、京都在住の陶芸家との交流を楽しんでいる。

千家茶道の最も正統な茶道具を製作する家筋として家元の「御好道具」を制作し『永楽家十一代/永楽保全』以来の【永楽家】の陶脈を現代に継承した。

作風
「色絵」、「金襴手」、「交趾」、「染付」、「祥瑞」、「布目手」、「信楽」、「御本」、「伊羅保」、「安南」などこれまでの歴代の作域の全般にわたる多彩な領域に及ぶが中でも洗練された明るい色調の「琳派様式」の色絵作品や絢爛な意匠が巧みに色彩に調和した交趾釉の作品、優美精巧な金襴手の作品などには【永楽家十六代/永楽即全】の個性が色濃く表れている。

こうした作品は昭和三十三年(1958年)に発表された【源氏物語五十四帖】にちなむ五十四点のなかでも遺憾なく表現されており【永楽家十六代/永楽即全】の陶芸を代表するものとなっている。

源氏物語五十四帖
昭和三十三年(1958年)に発表された【源氏物語五十四帖】【永楽家十六代/永楽即全】の代表作というべきもので「色絵」、「金襴手」、「染付」、「交趾」、「布目手」、「御本」など【永楽家】歴代が制作してきた多彩なあらゆる技法を用い、各帖にふさわしい作品が生み出され配置されている。

また【源氏物語五十四帖】を製作するにあたり昭和二十七年(1952年)頃から、《京都大学/文学部》の『吉澤義則()』博士のもとで【源氏物語】の講義を受け月一回の講義が三年半ほど続いたという。

授賞
「昭和五十六年淡々斎茶道文化賞」、「昭和五十八年第一回京都府文化賞功労賞」、「昭和六十一年京都市文化功労者表彰」、「平成2年京都府文化賞特別功労賞」をそれぞれ受賞。

また平成二年(1990年)には、【勲五等瑞宝章】の栄誉に輝く。

享年
平成十年(1998年) 五月三日没。享年八十歳。

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  • 十七代 [当代] 永楽 善五郎 ~えいらく・ぜんごろう~
  • 昭和十九年(1944年) ― 年(年) / 歳
出自
『永楽家十六代/永楽即全』の長男

[名]【紘一】

事績
父『永楽家十六代/永楽即全』の隠居にともない【永楽家】の家督を継承。
平成十年(1998年)一月一日に【永楽家十七代/永楽善五郎】を襲名。

幼年期から絵を描くことを好み、やがて専門的教育を受けるために『東京藝術大学日本画科』に進学、そして『大学院工芸家』に進み陶芸への道に入った。
ここでは画才を生かした作風を学び大学院修了作品【吹墨色絵雪華に鴛鴦文皿】は母校の《東京藝術大学》に買い上げとなっている。

その後、京都に帰郷し自己の創意を大切にした作品を次々に表現し一つの作陶領域にとどまらない幅の広い陶芸活動を展開した【紘一】時代を過ごしている。

また【紘一】時代には(1991年)ドイツのケルン市で染色工芸家の『羽田登(1938-)』との「京都工芸二人展」(1994年)、フランスのパリにて「華麗なる光彩・永楽紘一展」が開催されている。

そして【永楽家十七代/永楽善五郎】襲名にあたり(1999年)に《京都/高島屋》・《東京/高島屋》で【襲名記念十七代永楽善五郎展】を開催。

その後も平成十三年(2001年)に《京都/表千家北山会館》にて「千家十職 永楽家の茶陶 茶の湯工芸の伝統と創造」を開催するなど精力的に活動を行っている。

また平成十六年(2004年)『表千家十四代/而妙斎宗左(1938-)』より【紘康庵】の号を頂戴する。

作風
最初は具象的な絵柄の「色絵」作品や「染付」作品を手がけ、「大皿」、「壷」、「鉢」などに絵画性豊かな絵付の意匠を表現している。

ついで器形と調和した意匠の探求に着手し【縞模様】の「釉彩」作品へと移行する中で「壷」や「花入」に装飾された【直線模様】【曲線模様】が印象的な現代的作風を発表する。

そして淡彩の「染付」から豪奢な「金彩」、「銀彩」を面装飾した力感に満ちた「金銀彩」の「花入」の発表へと作陶は展開をとげている。

【永楽家十七代/永楽善五郎】襲名後の個展において「色絵」、「金襴手」、「交趾」、「染付」などこれまでの【永楽家】の歴代の作陶を統合する多彩な茶陶を発表した。

【色絵】には『野々村仁清(生年没不詳)』・『尾形乾山(1663-1743)』以来の京焼の伝統を踏み、【交趾】では『永楽家十一代/永楽保全』以来の【荒磯】の意匠があり、【金襴手】では琳派様式の「柳橋」、「松島」の意匠を製作している。

ことに新機軸として注目されたのは色絵の茶碗・水指に施された白釉や飴釉の【掛分手法】である。
この手法は仁清茶碗の中でも最上手の茶碗にみられたものであるがその後は【京焼】でもほとんど試みられたことはない。

また【交趾】の「皆具」、「水指」などにも「紫と緑」、「青と紫」という色の交錯がありそこには躍動感に溢れた鉋による【曲線彫り】が大胆に施されている。

華やかさの中に男性的ともいえる力強い意匠を表現する【永楽家十七代/永楽善五郎】独自の茶陶製作はこうした伝統、新規の両作域から今後一層大きく展開されいくであろう。

享年

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