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茶道の季節

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本の季節 ◆

“日本の季節って四季だけじゃないの?”


══════════════ 目 次 ══════════════ ▼はじめに   ▼日本の季節 [気候]   ▼日本の暦 [五節句]   ▼日本の暦 [干支]   ▼用語解説 ═══════════════════════════════



じめに~日本の季節~

私たちの住む日本にはその豊かな自然の変化を楽しめる四季があり、その四季の中にも「五節句」をはじめとするさまざまな季節の行事があります。

農耕を主とした私たちの祖先はそのすべての自然や生命に感謝を込め、そして季節の行事ではその自然や生命に「豊作」や「子孫繁栄」などのさまざまな願いを込め今日の私たちへと受け継がれてきました。

そして今日の私たちも家族をはじめ近隣の人々や地域の人々とその行事を祝い、楽しむことで私たちは日本人としての感性を育み生活をしています。

ここでは私たちにとって大切な日本の季節についてご紹介していきたいと思います。

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本の季節~二十四節気/七十二候~

▼ 二十四節気/七十二侯 ▼

日本の季節区分には「春・夏・秋・冬」を表す「四季」を代表とし、一年を二十四等分し半月の期間を示した「二十四節気」、そしてその二十四の各節気をさらに三侯に細分化し五日間ごとに示した「七十二侯」の表現があります。
※「気候」という言葉は「二十四節気」の「気」と「七十二侯」の「候」からできています。

二十四節気/七十二候
[二節]
一年を太陽の黄道をもとに「夏至」と「冬至」の「二至」で二分割。
[四節]
[二節]に「春分」と「秋分」の「二分」を入れさらに二分割。
[八節]
[四節]に「立夏」「立秋」「立冬」「立春」の「四立」を入れさらに四分割。
[二十四節]
上記の[八節(一節=四十五日)]を十五日間隔で三分割。
[七十二侯]
上記の[二十四節(一節=十五日)]を五日間隔で三分割。


▼ 二十四節気~にじゅうしせっき~ ▼

一年の季節を表すには太陽の動きが非常に影響します。
「二十四節気」とはその太陽が動く天球上の道である黄道を二十四分割にしたものをいい、半月の季節変化を表す指標として古くから用いられています。
また別に「二十四気」ともいいます。

月の満ち欠けを基準とする「太陰暦」や太陽の動きを太陽と月のめぐりを取り入れた「太陰太陽暦」は厳密にいうと年ごとに季節や月日にズレが生じ、年によっては一ヶ月ほどズレが生じる場合もあるために季節の目安としてはなりにくく古代の中国にて考案された「二十四節気」を取り入れ一年の季節の指標としている。

また「二十四節気」の特徴に毎年同じ時期に「節気」が巡ってくることがあげられ「節気」の間隔も一定のため、古くから天候や時期に左右される農業においては大変便利であると共に大変重要な季節の指標とされている。

今日においては季節を感じる指標として時候の挨拶文などに用いられる事が多い。

―[備考]
中国と日本では気候が違うため「二十四節気」の「夏至」は日本では「梅雨」であり、もっとも暑いとされる「大暑」は日本では「立秋」の前後となるなど季節のズレが生じてしまいます。
そこで日本ではこのような季節のズレを補足するため、「二十四節気」の他に「土用」「八十八夜」「入梅」「半夏生」「二百十日」などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れている。

―[備考]
日本では明治五年(1872年)以降、「太陽暦(旧暦)」をもとにした「グレゴリオ暦(新暦)」を採用しており「二十四節気」の日付は毎年一定とはなったが一方では「グレゴリオ暦(新暦)」は「太陽暦(旧暦)」に対し、年初の定義の違いから来る日付のずれが発生することから、「太陽暦(旧暦)」では「秋」であった「文月(7月)」が「グレゴリオ暦(新暦)」では「夏」になるなどの「月遅れ」が生じることになった。

もともと中国の定義であった「二十四節気」が「グレゴリオ暦(新暦)」の採用も重なり、今日では違和感が存在する事となる。
また今日の日本のメディアでは旧暦を用いた「暦の上では・・・」という説明表現を用いることが多い。

このような事から日本では平成二十三年(2011年)に日本気象協会から「現代の日本に合わせた二十四節気」を創造する事を目標に準備委員会も設置され一般公募も含め翌年の平成二十四年(2012年)の秋頃に「21世紀の二十四節気」として発表し周知させていきたい意向を示していたが「これまで培われた微妙な季節感を混乱させる」として多くの反対の声が寄せられ平成二十四年(2012年)九月に計画は中止されている。


▼ 七十二侯~しちじゅうにこう~ ▼

前述の「二十四節気」は半月毎の季節の変化を示していますが、これをさらに「一節気(十五日間)」を五日間隔に三分割にし、気象の動きや動植物の変化を知らせたのが「七十二候」です。

「七十二候」の各名称(一侯)については、一般生活では触れる事の少ない事柄もありますが、その時期の気候の変化や動植物の様子が短い文で表されその繊細な季節の変化を表現しています。

「二十四節気」が古代のものがそのまま使われているのに対し、「七十二候」は何度も変更され現在に至ります。

―[備考]
紀元前三世紀頃には中国にて「二十四節気」「七十二侯」ともに整備され暦に用いられていたといい、その後日本へ伝わったとされるが中国と日本では必ずしも気候は一致せず(「梅雨」「台風」など)、また中国の「七十二干支」では中国の故事に因む人物や自然現象、植物、動物などの言葉が使われていたため日本においては幾度の改編をへて江戸時代(1603-1868)に入り日本の気候風土に合うように改定され日本独自の「本朝七十二候」を制作されています。


▼ 日本の気候 [気候] ▼



四季
十二ヶ月
二十四節気
七十二侯
一月
[睦月]
小寒
 [初侯] 芹乃栄
 [次侯] 水泉動
 [末侯] 雉始雊
大寒
 [初侯] 款冬華
 [次侯] 水沢腹堅
 [末侯] 鶏始乳
二月
[如月]
立春
 [初侯] 東風解凍
 [次侯] 黄鶯睍睆
 [末侯] 魚上氷
雨水
 [初侯] 土脉潤起
 [次侯] 霞始靆
 [末侯] 草木萌動
三月
[弥生]
啓蟄
 [初侯] 蟄虫啓戸
 [次侯] 桃始笑
 [末侯] 菜虫化蝶
春分
 [初侯] 雀始巣
 [次侯] 桜始開
 [末侯] 雷乃発声
四月
[卯月]
清明
 [初侯] 玄鳥至
 [次侯] 鴻雁北
 [末侯] 虹始見
殻雨
 [初侯] 葭始生
 [次侯] 霜止出苗
 [末侯] 牡丹華
五月
[皐月]
立夏
 [初侯] 蛙始鳴
 [次侯] 蚯蚓出
 [末侯] 竹笋生
小満
 [初侯] 蚕起食桑
 [次侯] 紅花栄
 [末侯] 麦秋至
六月
[水無月]
芒種
 [初侯] 螳螂生
 [次侯] 腐草為蛍
 [末侯] 梅子黄
夏至
 [初侯] 乃東枯
 [次侯] 菖蒲華
 [末侯] 半夏生
七月
[文月]
小暑
 [初侯] 温風至
 [次侯] 蓮始開
 [末侯] 鷹乃学習
大暑
 [初侯] 桐始結花
 [次侯] 土潤溽暑
 [末侯] 大雨時行
八月
[葉月]
立秋
 [初侯] 涼風至
 [次侯] 寒蝉鳴
 [末侯] 蒙霧升降
処暑
 [初侯] 綿柎開
 [次侯] 天地始粛
 [末侯] 禾乃登
九月
[文月]
白露
 [初侯] 草露白
 [次侯] 鶺鴒鳴
 [末侯] 玄鳥去
秋分
 [初侯] 雷乃収声
 [次侯] 蟄虫坏戸
 [末侯] 水始涸
十月
[神無月]
寒露
 [初侯] 鴻雁来
 [次侯] 菊花開
 [末侯] 蟋蟀在戸
霜降
 [初侯] 霜始降
 [次侯] 霎時施
 [末侯] 楓蔦黄
十一月
[霜月]
立冬
 [初侯] 山茶始開
 [次侯] 地始凍
 [末侯] 金盞香
小雪
 [初侯] 虹蔵不見
 [次侯] 朔風払葉
 [末侯] 橘始黄
十二月
[師走]
大雪
 [初侯] 閉塞成冬
 [次侯] 熊蟄穴
 [末侯] 鱖魚群
冬至
 [初侯] 乃東生
 [次侯] 麋角解
 [末侯] 雪下出麦

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本の暦~五節句~

▼ 節句 ▼

「節句」とは古代中国にける陰陽五行説に由来し、日本の暦に定着した年中行事を行う季節の節目(変わり目)となる日。
別に「節供」「節日」ともいう。
※節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の節目(変わり目)の日ことをいう。

陰陽五行説によると暦の中では奇数の重なる日(一月一日・三月三日etc)は『奇数すなわち「陽」が重なると「陰」になる』といわれ、それを避けるために魔除けの「避邪」の行事を行い、その季節の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的からはじまったとされる。

また日本では古来より宮廷において邪気を祓う「節会」とよばれる宴会が行われるようになり、後に「節句」と言われるようになったとされる。
※一月だけは一日は「元旦」のため七日の「人日」の日が五節句に入っている。

江戸時代(1603-1868)には幕府が公式な行事(祝日)として『人日の節句(一月七日)』『上巳の節句(三月三日)』『端午の節句(五月五日)』『七夕の節句(七月七日)』『重陽の節句(九月九日)』の五節句を定める。

その後、明治六年(1873年)に「五節句」制度は廃止される事となるが現在においても年中行事の一環として定着しており、特に三月三日の「上巳の節句(桃の節句/雛祭り)」や五月五日の「端午の節句」などは子供たちにとっては非常に楽しみな行事として日本人に親しまれています。

―[備考]
「節供」の日に食べられる節句料理は「御節供」と呼ばれ、全ての節句の時に食べられる祝儀料理であったが時代と共に「人日の節句」の「正月料理」を指すようになり現在では「御節料理」として定着している。

節 句
人日
上巳
端午
七夕
重陽
月 日
一月七日
三月三日
五月五日
七月七日
九月九日
和 名
( 別 名 )
七草の節句
桃の節句
雛祭り
菖蒲の節句
笹の節句
星祭
菊の節句
節 句
料 理
七草粥

菱餅
白酒
あられ
菖蒲湯
柏餅
素麺
かりんとう
茄子

菊酒


▼ 人日 ▼

古来中国の風習で正月の「一日=鶏の日」「二日=狗の日」「三日=猪(豚)の日」「四日=羊の日」「五日=牛の日」「六日=馬の日」とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしおり、正月の最後の日である七日は「人の日(人日)」とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。
また中国ではこの日に七種の菜が入った「七種菜羹」という吸物を食す風習が平安時代(794年-1185年)に日本へ伝わり、日本の「若菜摘み」の風習と合わさり日本では七種の若菜を入れた「七草粥」を食し一年の豊作と無病息災を願う風習になったとされる。

江戸時代(1603-1868)には「五節句」は幕府が公式な行事(祝日)として定めたため将軍以下全ての武士が「七草粥」を食し一般にも広まったとされる。

また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔らかくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われている。


▼ 上巳 ▼

「上巳」とは上旬の「巳の日」の意味であり、元々は旧暦の三月上旬の「巳の日」であったが、古来中国の三国時代(184年-280年)の魏王朝(220年-265年)の頃より三月三日に行われるようになったと言われている。

中国ではこの日に川辺などで身を清め災いを祓う行事としておこなわれており、またこの日には中国では魔除けの力があるとされる桃の酒を飲む習慣があったとされる。

日本においても古来より桃は災いを遠ざけるものとされ、この頃には桃の花が咲く季節であったことから桃の花を飾る習慣があり「桃の節句」ともいわれるようになる。

今日の雛祭りでは豪華な人形が飾られる習慣があるがその習慣は日本独自で発達したものと考えられ、その起源は平安時代(794年-1185年)頃、京の貴族階級の女の子達が「ひいな遊び(人形遊び)」という現代でいう「おままごと」をおこなっていたことと紙製の人形に病気や災いなどの穢れを移し川や海に流して災厄を祓う祭礼「流し雛」に由来しているとされ今日の雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になったという。

女の子の遊びが由来する事から女の子の健やかな成長を願う行事としてその後、定着する事になる。

また当日は桃の木を飾り、白酒や飾り蛤の吸物、ちらし寿司などを食し、菱餅やあられなどをお雛様にお供えいたします。


▼ 上巳 ▼

「端午」の「端」は「はじめ/最初」などの意味があり、古くは各月の最初の「午の日」を祝っていたが後に「牛」「五」が同じ発音のため五月五日に定着したという。

中国では急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったために五月は「毒月」と呼び不吉な月とされたため薬草を取って災いを祓う行事がおわれてきました。

また日本では五月は田植えの時期でもあるため田植えをする女性が菖蒲屋根の小屋に集まり田植前に身を祓い清め穢れを取る「五月忌」の習慣があり、それと中国からきた「端午」が合わさり「節句」として定着したという。
その事から当初は女性のための「節句」であったが鎌倉時代(1185年-1333年)を迎え武家社会となった頃より「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることや「菖蒲」の葉の形が刀を連想させることから男の子の成長や健康を願う「男の子の節句」として定着する事になる。

また当日は男の子の成長を見守るという意味合いで「鎧」「兜」「刀」「金太郎」「弁慶」を模した「人形」を飾り、「鯉の滝登り」から連想されるように威勢のいい魚で上昇、常勝の願いが込められた「鯉」を竿につけ軒先などに飾る「鯉のぼり」をおこなう習慣が定着する。

他に「強い香気による厄払い」として今日でも「菖蒲湯」に入る習慣がある。

またこの日に「柏餅」を食べる習慣は日本独自のものであり「柏」は新芽が出るまで古い葉が落ちないために「家計が途絶えない」との願いが込められている。

また「端午の節句」から連想させるものに「粽」があるがその起源は中国の故事に由来する。
中国楚代(紀元前十一世紀-紀元前223年)の政治家である『屈原(紀元前343年-紀元前278年)』は多くの国民より信望があったが陰謀により国を追われ五月五日に自ら「汨羅江」に身を投げてしまう。
その後、国民たちは命日には「汨羅江」にその亡骸を「魚が食べないように」との願いを込め、「粽」を投げ供養したということから今日の「端午の節句」でも「粽」を食す習慣が定着することになる。
余談であるがこの時に舟を出して『屈原(紀元前343年-紀元前278年)』を助けに行った故事に因み「龍船節」が行われこれが現在のドラゴンボート競技の起源とされている。


▼ 七夕 ▼

古く中国で行われていた「牽牛」と「織女」の二つの星に裁縫技術の上達を願う「乞巧奠」という星に願う行事が起源とされており、その後に日本に伝わり日本古来の「棚機津女」の信仰と混ざり合い「七夕」が形成される。

また「七夕」と呼ぶのは日本では古来より七月七日に「棚機津女」といわれる女性が、病気や災厄を祓い秋の豊作を願い「機織」で織った布を神に納める「禊行事」があったことからきているという。

七世紀後半~八世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」にも「七夕」に関する詩が数首歌われていることから『第四十一代天皇/持統天皇(645-703)』の頃に行われていたことは明らかである。

宮中では「清涼殿」の庭に机を置き、「桃」「茄子」「瓜」「鮑」などの供物を供え、音を奏で、詩を読み、終夜香を焚き、天皇は倚子に腰掛、二星の会合に祈ったという。

また中国文化の影響を強く受けた貴族たちは「竹竿に糸をかけ願いを込め書いたものを吊るし星に祈ると願いが叶う」という「乞巧奠」の習わしに従い貴族の屋敷では二星の会合に裁縫や染織などの技巧上達の願いを里芋の葉にたまった夜露を「天の川の雫」とみたてそれを墨で溶かし聖木とされる「梶」の葉に詩として書いたという。

やがてそれが貴族以外の大衆にも広がり「七夕」は定着していくこととなる。
そして江戸時代(1603-1868)には「五節句」の一つとなり民衆に定着したことで「牽牛」と「織女」が「七夕」の夜に再開したように「二人のように願いが叶いますように」と今日では「梶の葉」にかわり五行思想に習い五色の短冊にさまざまな願いを書き、笹に吊るし星に願う「祭り」として定着する事となる。

また「七夕」の「節句料理」として「素麺」があげられます。
古代中国に「七月七日に亡くなった帝の子が霊鬼神となって熱病を流行らせたという。そこで、その子の好物だった索餅を供えて祀り、疫病を沈めた」という伝説から「七月七日に索餅を食べれば一年間無病息災ですごせる」という。
「索餅」とは「素麺」の元となった小麦料理であり後に「素麺」を食べる習慣になったという。


▼ 重陽 ▼

陰陽思想において奇数は「陽」の数字であり一桁の最大数である「九」が重なるためこの日を「重陽」と呼ぶ。
また旧暦の九月九日は菊が咲く季節であることから「菊の節句」とも呼ばれている。

「九」は一桁の最大数の「陽」であり、特に九月九日は「陽」が重なることで「陰」となりそのため気が強く不吉な日とされ、それを祓う行事として「節句」がおこなわれていたとされる。

古くから中国において「菊」は「菊慈道」の伝説から延寿の力があるとされる。
その昔中国の周代(紀元前1046年-紀元前256年)の『[周朝第五代王]穆王(紀元前976-紀元前922)』の時代に王に寵愛を受けた『慈童』という少年がおり、その『慈童』は王の留守中に誤って王の枕を越えてしまったことで、山深く、暗く、鳥も鳴かず、虎が住み、一度入山すれば二度と帰る事のできないとされる「縣山」へ流刑されることとなった。
それを知った『[周朝第五代王]穆王(紀元前976-紀元前922)』は『慈童』を哀れみ二句の偈を授け、それを賜った『慈童』は菊の葉にそれを書き写したところ下葉の露がわずかに谷の水に滴り、この谷下にある三百余家、皆病気が治り長寿を保ちました。
そして『慈童』もこの水を飲み不老不死の仙人になったという。

その名残として今日においてもお酒に「菊」の花を浮かべた「菊酒」や湯船に「菊」を浮かべた「菊湯」、「菊」を詰めた枕「菊枕」など邪気を祓い延寿・長寿の願いを込め行われています。
またという「重陽の節句」の前夜に露よけの綿を「菊」の花にかぶせておき、当日に露と菊の香りが染み込んだ綿で体を拭いて邪気を払い長寿を願う「菊の被せ綿」という風習があります。

他に庶民の間では「お九日」として親しまれ秋の収穫と合わせ祝う事から今日においても「長崎くんち」や「唐津くんち」などが行われています。

今日では新暦に変わり「菊」との季節感も合わなくなり九月九日には「菊」が無いなどの不都合もあり他の「節句」に比べ認識が低いが古くは最も重要で盛んにおこなわれた「節句」とされています。

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本の暦~干支~

▼ 干支 ▼

また前述の季節とは少し意味合いは異なりますが私たち日本人に非常に身近な暦に十二年毎にやってくる「干支」があります。

正式には「干支」とは下記の十の漢字から成る「十干」と十二字の漢字からなる「十二支」とを組み合わせた六十から成る「六十干支」または「十干十二支」のことを「干支」と呼びます。

■ 十 干 ■
きのえ
きのと
ひのえ
ひのと
つちのえ
つちのと
かのえ
かのと
みずのえ
みずのと

■ 十 二 支 ■

うし
とら

たつ

うま
ひつじ
さる
とり
いぬ



▼ 十干 ▼

「十干」の「干」とは「木の幹」の意があります。
古代中国の殷代(紀元前1700年-紀元前1046年)の頃には「日」を記録するために「十干」が使われており、一ヶ月を「上旬・中旬・下旬」と十日に分け、その各日に単位として用いたのが「十干」とされている。

またこの「十干」を[木(き)]、[火(ひ)]、[土(つち)]、[金(か)]、[水(みず)]の五行思想と「陽」を表す「兄(え)」と「陰」をあらわす「弟(と)」の陰陽思想を組み合わせ下記の通り表します。

きのえ
きのと
ひのえ
ひのと
つちのえ
つちのと
かのえ
かのと
みずのえ
みずのと

甲=(木の兄=きのえ)
乙=(木の弟=きのと)
丙=(火の兄=ひのえ)
丁=(火の弟=ひのと)
戊=(土の兄=つちのえ)
己=(土の弟=つちのと)
庚=(金の兄=かのえ)
辛=(金の弟=かのと)
壬=(水の兄=みずのえ)
癸=(水の弟=みずのと)


▼ 十二支 ▼

「十二支」の「支」とは「枝」の意があります。
もとは十二年で天を一周する木星の軌道上の位置を示すための数詞として用いられており、古代中国の殷代(紀元前1700年-紀元前1046年)の頃には「暦」や「時間」を表す数詞として用いられていたといわれます。
また日本へは四世紀~五世紀頃に伝わってきたとされています。

今日の私たちが親しんでいる「鼠、牛、虎・・・」とそれまでの「十二支」にわかりやすく動物を当てはめたのは中国の後漢代(25年-220年)の思想家である『[思想家]王充(27-100)』が民衆に「十二支」を浸透させるべく、それまでの「子、丑、寅・・・」の数詞を覚えやすく馴染み易い動物に替えて文献を書いたことがはじまりとされています。

その後、十二支は「時間」や「方角」などを表す数詞として用いられ十九世紀頃に西洋の時刻表記が入ってくるまでは中国をはじめ日本など多くの国で1日を2時間ずつ12分割しそれぞれに「十二支」をあてはめる「十二時辰」という表記法が用いられていました。


うし
とら

たつ

うま
ひつじ
さる
とり
いぬ



▼ 十二支_相克図 ▼

「相克」とはそれぞれに対面、対立、敵対、相対、矛盾する二つのものがお互いに相見え勝とうと争う事をいう。
「十二支」においては「子と午」「丑と未」「卯と酉」「申と寅」「亥と巳」が相克の関係にあるとされる。
また五行思想の考えには相対する「木は土に」「土は水に」「水は火に」「火は金に」「金は木」にそれぞれ勝つとされている。

干 支
動 物
竜/龍
読 み
[中国語]

[シ]
うし
[チュウ]
とら
[イン]

[ボウ]
たつ
[シン]

[シ]
[旧暦]
季 節
冬至
冬土用
立春
春分
春土用
立夏
十一月
[新暦:十二月]
十二月
[新暦:一月]
一月
[新暦:二月]
二月
[新暦:三月]
三月
[新暦:四月]
四月
[新暦:五月]
時 間
0時
[夜半]
二時
[鶏鳴]
四時
[平旦]
六時
[日出]
八時
[食事]
十時
[禺中]
方 角
北北東
東北東
東南東
南南東

相克

相克

相克

相克

相克

相克
干 支
動 物
読 み
[中国語]
うま
[ゴ]
ひつじ
[ビ]
さる
[シン]
とり
[ユウ]
いぬ
[ジュツ]

[ガイ]
[旧暦]
季 節
夏至
夏土用
立秋
秋分
秋土用
立冬
五月
[新暦:六月]
六月
[新暦:七月]
七月
[新暦:八月]
八月
[新暦:九月]
九月
[新暦:十月]
十月
[新暦:十一月]
時 間
十二時
[日中]
十四時
[日昳]
十六時
[哺時]
十八時
[日入]
二十時
[黄昏]
二十二時
[人定]
方 角
南南西
西南西
西
西北西
北北西

※中国では「亥」の漢字が意味するのは「豚」であるが日本では「猪」となる。

■ 土用の丑の日 ■
五行思想に由来する暦の雑節の一つで「木・火・土・金・水」を四季にあて「春=木」「夏=火」「秋=金」「冬=水」とし「土」は「四立(立夏・立秋・立冬・立春)」とする。
また「土用」は「四立(立夏・立秋・立冬・立春)」を迎える直前の約十八日間を指し、一年で約七十二日間ある。

今日では一般的に「土用の日」と言えば「夏の土用(立秋前)」を指すことが多く、その約十八日間の土用期間中にめぐってくる「丑の日」には鰻を食べる習慣がある。
※年によっては「土用の丑の日」が二度めぐってくる場合もある。

五行思想では「春に木気」「夏に火気」「秋に金気」「冬に水気」とされ、その昔エアコンなどもない時代に猛暑の「未月/7月(旧6月)」に打ち勝つために「未」に相克する「丑(牛)」を「丑の日」に食べて打ち勝つという願いが込められていたという。
しかし江戸時代では「牛」を食べる事は禁止されていたため、その昔より滋養強壮に聞くとされていた「鰻」を江戸時代(1603-1868)の『[蘭学者]平賀源内(1728-1780)』が夏場に営業不振に悩む鰻屋に助言し「土用の丑の日=鰻」のブームを広げたという説が今日では有名であるが定かではない。
また「夏=火」に相克する「冬=水」の水気があり「丑」と同じ「鰻」があてられたという説もある。


▼ 六十干支 ▼

前述の「十干」と「十二支」の最小公倍数である六十の組み合わせを「六十干支」または「十干十二支」といい、今日では単に「干支」と呼んでいる。

六十歳を迎えると祝う「還暦」は「六十干支」がもとになり、自身が誕生し六十年経つと元の「干支」にもどるということから由来しています。
また還暦の日にはもう一度「赤子」に戻るとの意から赤いチャンチャンコを着る習慣があります。

きのえね
甲子
きのとうし
乙丑
ひのえとら
丙寅
ひのとう
丁卯
つちのえたつ
戊辰
つちのとみ
己巳
かのえうま
庚午
かのとひつじ
辛未
みずのえさる
壬申
みずのととり
癸酉
きのえぬ
甲戌
きのとい
乙亥
ひのえね
丙子
ひのとうし
丁丑
つちのえとら
戊寅
つちのとう
己卯
かのえたつ
庚辰

辛巳
みずのえうま
壬午
みずのとひつじ
癸未
きのえさる
甲申
きのととり
乙酉
ひのえいぬ
丙戌
ひのとい
丁亥
つちのえね
戊子
つちのとうし
己丑
かのえとら
庚寅
かのとう
辛卯
みずのえたつ
壬辰
みずのとみ
癸巳
きのえうま
甲午
きのとひつじ
乙未
ひのえさる
丙申
ひのととり
丁酉
つちのえいぬ
戊戌
つちのとい
己亥
かのえね
庚子
かのとうし
辛丑
みずのえとら
壬寅
みずのとう
癸卯
きのえたつ
甲辰
きのとみ
乙巳
ひのえうま
丙午
ひのとひつじ
丁未
つちのえさる
戊申
つちのととり
己酉
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庚戌
かのとい
辛亥
みずのえね
壬子
みずのとうし
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きのえとら
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丁巳
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みずのえいぬ
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