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茶道の歴史

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の湯の遊芸化 ◆
江戸時代/後期 [1603年-1868年]

“厳格な『茶道』が遊芸になるとはどういうことなのか?”


══════════════ 目 次 ══════════════ ▼はじめに   ▼茶の遊芸化   ▼三千家の役割   ▼茶道を学ぶ
▼茶道の世界進出   ▼もう一つの『茶』   ▼用語解説 ═══════════════════════════════



じめに~『茶の湯』の遊芸化~

『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』没後、その意思を継承し『茶の湯』を飛躍させた三人の孫たちであったが江戸時代(1603-1868)中期に入り太平の世になったこともあり『茶の湯』は町衆にも広がりを見せることになる。

しかし町衆に広がる反面「遊びを楽しむ芸能」という『茶の湯』が本来の『道』から外れた『遊芸』として町衆に広まってしまうことになる。

そこでその『遊芸化』を危惧した『三千家』はどのような対策をし『茶の湯』を本来の『道』に戻すことになったのかそして今日の『茶道』につながる『三千家』の役割がどのように確立していったのかをご紹介いたします。

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の遊芸化~『茶』が町衆のものへ~

江戸時代(1603-1868)中期になると『茶の湯』は「遊びを楽しむ芸能」として多くの町衆に広まる反面『茶の湯の遊芸化』に拍車がかかることになる。

『茶の湯の遊芸化』が進むにつれさまざまな弊害も生まれ『[茶祖]村田珠光(1423-1502)』が提唱した『わび』『さび』に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもおこり庶民の間で『茶人』が「変人」の隠語となる事態も招く事となる。

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千家の役割~家元制度の確立~

時代の流れは町衆文化を迎え『茶の湯』を楽しむ人々が急増すると共に『茶の湯』の教授者と弟子という関係性が生じ、大量の門弟をまとめるために今日の伝統芸能において一般に見られる組織形態である「家元制度」が確立する事となる。

『三千家』を筆頭とする家元制度が確固たる地位を完成させることで『遊芸化』をはじめた『茶の湯』は元来の『道』として名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していくことになる。

今日の茶道において『茶道』の根本とされる『和敬清寂』という標語もこの過程で生み出され、各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて『茶道』本来の精神を見直すことによって、現在『茶道』と呼ぶ『茶の湯』が完成することとなる。

そうした茶道文化の普及の過程において以前までの『茶室(小間)』での『茶事』を中心とした形から一度に多くの弟子たちの稽古に対応するため『茶室(広間)』での『茶』の稽古を考案する必要が生じる事となる。

そしてその結果、『表千家七代/如心斎天然宗左(1705-1751)』や弟の『裏千家八代/又玄斎一燈宗室(1719-1771)』門下の『江戸千家開祖/川上不白(1716-1807)』らによって『七事式』が考案され、ますます『茶の湯』は人気を得『茶の湯』は都市部ばかりではなく地方、農村地域にも広がることになる。

■ 七事式 ■
八畳以上の『茶室(広間)』で一度に5人以上で行うのが原則で以前からある「茶カブキ」「廻り炭」「廻り花」を整備し「且座」「花月」「一二三」「員茶」を加えた七種類の式作法を考案。
七事式の制定には『茶室(小間)』での『茶』を中心とした『わび茶』に『茶室(広間)』での『茶』を取り込もうとした結果と考えられる。

またこの頃には後代々千家にて使用する茶道具を専門につくる『職家』ができておりそれが年月を重ね『十家』が固まり現在の『千家十職』が形成される。

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道を学ぶ~茶道解体新書~

江戸時代(1603-1868)後期には『茶会』を催すことに加え『茶道具』を研究する大名茶人も現れてくる。

出雲/松江の『越前松平家七代/松平治郷(不昧)(1751-1818)』は『茶の湯』を門下の『姫路藩主酒井家二代/酒井忠以(宗雅)(1756-1790)』らに伝授した他に自らデザインした『茶道具』を作らせている。
さらに自身の所持した『茶道具』をもとに図入りの名物茶道具集『古今名物類聚』(18冊)を実費で出版し『大名物』や『名物』などそれまであいまいであった『茶道具』のランクを確定しようと試みている。

また『越前松平家七代/松平治郷(不昧)(1751-1818)』は身分を越えて大坂の『[豪商]鴻池善右衛門』家や『[豪商]加島屋久右衛門』家などの『茶の湯』を嗜む豪商たちの『茶会』を訪れている。

そしてこの頃には茶道具名物集『茶器名物図彙』を著した大坂の『[茶人]草間直方(1753-1831)』をはじめ江戸の『[豪商]仙波太郎兵衛(生没享年不詳)』、伊勢の『[両替商]竹川竹斎(1809-1882)』など全国で『茶』を学ぶ豪商たちが活動している。

また『越前松平家七代/松平治郷(不昧)(1751-1818)』のように茶道具に興味を抱く『茶人』の他に『茶道』の精神性を探ろうとする『茶人』も現れます。
幕末の彦根藩の藩主である『[江戸幕府大老]井伊直弼(1815-1860)』です。

幕末の『政治家』であるがもう一つに『井伊宗観』という『茶人』の側面を持っており二百会以上の『茶会』に亭主や客人として参加し、藩窯『湖東焼』を育成するかたわら『茶湯一会集』を著している。
『[江戸幕府大老]井伊直弼(1815-1860)』は『一期一会』すなわちその時の『茶会』を一生に一度と考えて悔いが無いようにと主張している。

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道の世界進出~『茶』のお・も・て・な・し~

今日では全国各地にておこなわれている『茶会』の形式にさまざまな場所にておこなうことが可能な『立礼茶会』というのがあります。

そしてその形式を考案したのは江戸時代(1603-1868)後期に御活躍された『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』となり百年の歴史があることがわかる。

『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』は公家や大名らにも広く『茶』を楽しむようにすすめ、さらに明治時代になると外国人も気軽に『茶』を楽しめるようにと椅子とテーブルにて行う『点茶盤』を考案し、後の明治五年(1872)に行われた『第一回京都博覧会』の『茶会』で披露しています。

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う一つの『茶』~煎茶の誕生~

また江戸時代(1603-1868)後期になると『茶の湯』以外にも『茶』を楽しむ『煎茶』が誕生することになる。

元文三年(1738)、京都/宇治の農民であった『[煎茶の祖]永谷宗円(1681-1778)』(現:株式会社永谷園/祖先)は十五年の歳月をかけ新しい製茶法を研究し味も優れた緑の『煎茶』を製法することに成功。
この新たな製茶法は『青製煎茶製法』と呼ばれその後の日本における『緑茶』の主流となる。

その後『[煎茶の祖]永谷宗円(1681-1778)』はその煎茶を携え江戸の茶商『山本勘兵衛(生没享年不詳)』(現:株式会社山本山/家祖)に販売を委託。
『山本勘兵衛(生没享年不詳)』はその上品さを認め『天下一』の号を附して市販。
その後天保六年(1835)『山本山六代/嘉兵衛徳翁(生没享年不詳)』は、宇治郷小倉の木下家において『玉露茶』の製茶法を考案し、煎じて飲む『煎茶』は広まっていくことになる。

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語解説 ◆


■ 用語解説 ■
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項案内 ■


次ページにて“大名でも家元でもない『茶道』を救った救世主とは?”をご紹介

の湯の救世主 ▶▶▶
明治時代 [1868年-1912年]

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