
千家十職
06.駒澤利斎 [指物師]
❙はじめに ~ 駒澤利斎 ~
「千家十職」とは、千家好みの茶道具の制作を業とする十家の職家であり、日本美術(伝統工芸)の中でも特に重要な職人技を受け継いできた家々です。その技法は代々継承され、茶の湯の美と職人の美が融合した作品を生み出しています。
その千家十職の一つである駒澤家は、三千家御用達の「指物師」として「棚物」「香合」「蓋置」などをはじめ代々家元の「御好物」などの制作を業とする職家です。
駒澤家の指物は、木の質感を生かした繊細な細工と、無駄のない端正な意匠が特徴です。釘を使わず、木と木を組み合わせて構築する高度な技術によって、機能性と美しさを兼ね備えた作品を生み出しています。また、千家の茶の湯の精神に基づき、茶室の空間や道具の調和を考慮しながら、品格ある指物を制作し続けています。
駒澤家は、茶の湯の発展とともに技術を磨き、千家好みの指物を代々にわたり制作してきました。その作品は、時代の変遷を経ながらも、伝統の技法を守り続け、茶の湯の世界に欠かせない存在となっています。
本項では駒澤家の歴史とそのあゆみについてご紹介します。
それでは「指物師/駒澤利斎」について詳しく見ていきましょう。
❙駒澤利斎 ~ あゆみ ~
駒澤家は表千家の近くの小川通寺ノ内下ル射場町に居を構え、延宝年間(1673年-1681年)以来、代々「指物」を業として「木地台子」「長板」「棚物」「卓」「木地水指」「文庫硯蓋」「茶箱」「炭台」「行灯」「炉縁」「菓子器」「莨盆」など代々「茶の湯」に関わる多種多様な木地道具を制作してます。
安永九年(1780年)刊行の『茶器価録』上巻には前述の他にも桑や竹の「台子」「利休形四方棚」「袋棚」「丸卓」をはじめ「曲水指」「屏風」など九十七点が記載されており、また『表千家九代/了々斎曠叔宗左(1775年-1825年)』の時代に書かれた記録に『指物師/利斎』の道具百六十六点が値段と共に記載されておりその種類の豊富さに驚かされる。
これらの道具は「利休形」を基本とし「千家」と密接な関係を持ちながら歴代の御家元の「御好物」が作られており、それに必要な寸法・材質・デザインなどの資料は代々駒澤家に受継がれて今日に至っている。
駒澤家は「駒澤家初代/駒澤宗源」が延宝年間に指物業を始めたの駒澤家の起源とされています。
千家とのかかわりが始まったのは「駒澤家二代/駒澤宗慶」からで、『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578年-1658年)』の注文により、指物を製作したと伝えられています。しかし千家に本格的に関わるようになったのは「駒澤家四代/駒澤利斎」からであり、『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678年-1730年)』の知遇を得て、千家出入りの茶方指物師として指名され『利斎』の名を賜りました。以後、代々の駒澤家当主は『利斎』を名乗る事となります。
駒澤家の歴史については従来、はじめに『利斎』を名乗った当主を初代とし、それ以前『宗源』『宗慶』『長慶』の三代を家祖とするのが一般でした。しかし数寄者『草間直方(1753年-1831年)』が著した「茶器名物図」によると「指物師利斎家系之事」の条に「千家出入職、正徳、享保年覚々斎取立破申」とあり、正徳年間(1711年-1716年)から享保年間(1716年-1736年)にかけて『表千家六代/覚々斎原叟宗左(1678-1730)』に取り立てられて千家職方になったとされており、『宗慶』を『初代利兵衛』、『理右衛門』を『二代利斎』と駒澤家の家系に関する異説があることがわかる。近年駒澤家の過去帳に基づいて歴代当主が整理され正式な系譜が確立されました。
江戸時代後期に活躍した「駒澤家七代/駒澤利斎」は指物だけではなく塗師としても一流の腕を持ち、『黒田家八代/黒田正玄』や『飛来家十一代/飛来一閑』らと合作を作るなど意欲的に製作を行い、長寿にも恵まれ『駒澤家中興の祖』と称されています。
しかしその後の駒澤家では当主が大成する前に早世する不運が続き、「駒澤家十三代/駒澤利斎」は七十歳まで生きたものの晩年に授かった息子に先立たれると言う悲劇に見舞われました。
「駒澤家十三代/駒澤利斎」の死後、妻であった「浪江(のちの『駒澤家十四代/駒澤利斎』)」は娘「千代子」を後継者とするべく家業の継承を決意するが、「千代子」が昭和三十六年(1961年)に早世し、自身も昭和五十二年(1977年)に死去。
以後、今日に至るまで名跡は長く空席となっています。
しかし「駒澤家十四代/駒澤利斎」の甥であった、「駒澤家後見人/吉田一三」の息子である「吉田博三」が後継者として修業を積み駒澤家の技術を受け継ぐべく研鑽を続けています。
駒澤家は、千家の指物師として確固たる地位を築き、代々茶の湯のための木工道具を制作してきました。利休形を基本としながらも、各時代の千家の御好物に応じた作品を生み出し、茶道具の歴史とともに歩んできました。名跡の空白期間を経ても、その技術と精神は次世代へと受け継がれています。