
茶道の歴史
04.喫茶の多様化 ~ 室町時代 (前期) ~
❙はじめに ~ 喫茶の多様化 ~
「茶道の歴史」では茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。
前回までに述べたように鎌倉時代(1185年-1333年)後期までは寺院における修行の一環としての「茶」や武家社会での「薬用」として役割が中心でした。
しかし室町時代(1336年-1573年)前期に入ると「茶」は身分を越えて広まり、庶民にとっても「嗜好品」として受け入れられるようになります。
「茶寄合」や「闘茶」、庶民の間で流行した「一服一銭」などさまざまな喫茶スタイルが登場しさまざまな喫茶文化が形成されていきました。
また鎌倉時代後期に中国よりもたらされた「唐物道具」の影響により室町幕府の将軍や大名たちの間では喫茶の場が「会所」から「書院」へと移り、より洗練された「作法」が確立されていきます。これにより今日の茶道の原型が生まれることとなりました。
本ページでは時代とともに多様化した「喫茶」のあり方が、どのようにして日本文化に深く根付き、やがて今日の茶道へと発展していったのかを詳しく紐解いてご紹介していきます。
それでは「喫茶の多様化」について詳しく見ていきましょう。
❙喫茶文化の流行 ~ 茶人の原点 ~
室町時代(1336年-1573年)には「嗜好品」としての「茶」が庶民の間でも広く流行し、その様子が臨済宗の『[歌僧]正徹(1381年-1459年)』の記した歌論書『正徹物語』に描かれている。『[歌僧]正徹』は「茶の湯」に集う人々を以下の三種類に分類し紹介している。
1.茶数寄=「茶」に関する道具に美意識を持ち、それを所持し「茶」を楽しむ人。
2.茶飲み=「茶」の銘柄を飲み当てる「闘茶」の達人。
3.茶くらい=「茶寄合」がある必ず参加して「茶」を愉しむ人。
また『[歌僧]正徹』は「茶数寄」を歌人に例え
「硯・文台・短冊・懐紙などを美しく好んで、いつでも人の歌に自分の歌を添えることができ、歌の会などでは指導者になる人」
と記している。
この記述から当時の「茶」が単なる飲料ではなく、身分を越えて美意識を持つ人々に愛される文化へと発展していたことがわかる。これこそが今日の「茶人」の原点といえる。
❙茶会の原点 ~ 畳の上の茶? ~
室町時代(1336年-1573年)の初期、北山文化が開花すると、室町幕府の将軍や大名たちによる「茶」を中心とした宴会が成立し、これが今日の「茶会」の原点となった。
彼ら「会所」と呼ばれる建物を設け、喫茶の場とし活用した。
「会所」には多くの「唐物絵画」や「墨蹟」「茶道具」などが飾られ、これらを鑑賞しながら別室の「茶点所」で点てられた「茶」を喫し愉しんでいたという。
当初、「会所」では板敷きの部屋に椅子を置き、その上に座って「茶」を喫していたが、次第に「畳」が敷かれるようになり「会所飾り(座敷内の飾りのルール)」などの様式が整えられることとなる。
このような変遷を経て「茶」は単なる「薬」や「嗜好品」としての役割を超え礼法や独自の思想とともに「座敷飾り」などの様式を確立し、やがて「茶の湯」の成立へとつながることとなる。
❙引茶❙
―ひきちゃ―
室町時代(1336年-1573年)初期、『[室町幕府三代将軍]足利義満(1358年-1408年)』が北山に営んだ山荘を中心に、公家文化と武家文化を融合させて発展した文化。北山文化を象徴する建築として、寝殿造りを取り入れた京都の「鹿苑寺/金閣寺」がある。
❙大名物(東山御物)❙
―おおめいぶつ(ひがしやまぎょもつ)―
「会所飾り」に用いられた「唐物道具」は『[室町幕府八代将軍]足利義政(1436年-1490年)』の時代まで将軍家に受け継がれ、特に優れた美術工芸品は「大名物(東山御物)」と称され、現在に至るまで伝えられている。
❙書院茶の誕生 ~ 茶の湯の成立 ~
室町時代(1336年-1573年)中期に東山文化が開花すると、それまで貴族を中心とした社会から武家社会へと変化。貴族社会の建築物であった寝殿造から武家社会の建造物である書院造へと移行することとなる。
これに伴い北山文化時代に「会所」で行われていた喫茶は東山文化の開花とともに「書院」に移り、書院内の飾りもそれまでの「会所飾り」から「書院飾り」となる。
書院は「能」や「連歌」などの芸能が催されるの場であり、そこでの喫茶も「茶湯の間」と呼ばれる点茶所から「同朋衆」の手により点てられた「茶」が運ばれ供されていた。
そして「茶」が会所から書院に移ることで「作法」という新たな要素が取り入られ、これが今日の「茶道」へとつながる大きな分岐点となった。
『[室町幕府八代将軍]足利義政(1436年-1490年)』の「同朋衆」である『能阿弥(1397年-1471年)』は「唐物道具」を書院に飾りつける「書院飾り」を完成させ、仏前に「茶」を供えるための仏具である「台子」を用いる「台子飾り」も考案。
他に柄杓の扱いに弓の作法を取り入れ、書院内での足の運びに能の仕舞の足取りを取り入れるなどさまざまな場面に礼法を取り入れる事で今までの「茶」が「書院茶」いわゆる「茶の湯」に変貌を遂げる事となる。
『能阿弥』『芸阿弥(1431年-1485年)』『相阿弥(生年不詳-1525年)』と続く「同朋衆」の一族によって茶を準備する「茶湯の間」の様子や「飾り」の方法が伝承され、それらは伝書「君台観左右帳記」として記録に残されている。
またこの時代の喫茶風俗を伝える書物『喫茶往来』には、はじめて「茶会」の語が登場しており、その内容は後世の『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』が定めらた茶会の基本的な型とよく似ている
❙東山文化❙
―ひがしやまぶんか―
室町時代(1336年-1573年)中期、『[室町幕府八代将軍]足利義政(1436年-1490年)」によって禅宗思想を基盤としながら中国宋文化や庶民文化を融合させて文化。
東山文化を象徴するものに書院造の京都の「慈照寺/銀閣寺」がある。
❙書院造❙
―しょいんづくり―
日本の古典文学で最長となる四十巻に及ぶ『太平記』によれば、『[武将]佐々木導誉(1296年-1373年)』が南朝方の軍勢に攻められ都落ちする際、「会所」に畳を敷き「本尊」「脇絵」「花瓶」「香炉」などの茶具を飾り、中国東晋の書家『[書家]王羲之(303年-361年)』の「草書の偈」と中国唐の文人『[文人]韓退之(768年-824年)』の「文」を対幅にした茶道具一式を飾りつけたのが「書院七所飾り」の始まりとされています。
❙同朋衆 ~ 影の世話人 ~
室町時代(1336年-1573年)の「茶」を語る上で欠かせない人物に将軍の身近に仕え「座敷飾り」や「喫茶」をはじめとして雑事や諸芸能に従事した「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる人たちがあげられます。
「同朋」という名の由来には二つの説があり、一つは室町将軍家の側近にあって諸芸能を努めた「童坊」に由来するという説。もう一つは宗教的な意味がより強い「同行同朋」から派生したという説である。
また「同朋衆」のすべてが「阿弥」号を持っており、その由来は「阿弥陀仏」の略称とされている。この事からも「同朋衆」の起源は「時宗の僧(時衆)」から派生したことが推測される。
「時宗の僧(時衆)」とは鎌倉時代(1185年-1333年)後期に大名に従軍し、戦場で菩提を弔い、負傷兵の治療を行う一方で舞や連歌などにより軍を鼓舞する役割も担っていたとされる。この流れを受け室町時代には幕府の一つの職になり将軍の雑務や芸能、喫茶に関わる業務を担当するようになったという。
「同朋衆」は僧のような坊主頭に武士の装束をまとい、刀を差すという特殊な装いをしており、「会所」での大きい宴の際には数十人が召し抱えられたという。
さまざまな業務を担当する「同朋衆」の中でも「茶」に関わる者は特に「茶同朋」と呼ばれていた。
本来は室町幕府の職の一つであったが、後世では武将に仕える「同朋衆」も現れた。
『[天下人]織田信長(1534年-1582年)』の側近として京都「本能寺」でともに討ち死にした『一雲斎針阿弥(生年不詳-1582年)』や『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の茶事に奉仕した『友阿弥(生没年不詳)』などがその代表例といえる。
❙一服一銭 ~ 茶の移動販売 ~
室町時代(1336年-1573年)には将軍や大名たちによる「会所」での喫茶文化が発展する一方でこの時代の喫茶文化は一般町衆への広がりを見せている。
その代表的なものの一つに「茶売り」と呼ばれる者が行った「一服一銭」という喫茶スタイルがある。「茶売り」は寺社の門前や参拝客で賑わう場所に「風炉」「釜」などの茶道具を並べ、訪れる人々に「茶」を提供していた。
またその販売スタイルも多様化し、茶道具一式を棒の両端につるし肩に担ぎ、人手を求めて移動する「荷い茶屋」と呼ばれる移動式の茶店も現れることとなる。
現存の史料によると東寺や祇園社などの洛中の主要な寺社の前では、神仏に捧げられた「茶」を参拝人にふるまう「茶売り」の姿が記録されている。
❙淋汗の茶の湯 ~ 茶の湯の原点 ~
室町時代(1336年-1573年)中期には今日では想像もつかないような独特な喫茶文化が存在しており、その一つに「淋汗の茶の湯」と呼ばれる風呂上がりの客人に「茶」を振舞う風習が挙げられます。
「会所」や「書院茶」と同様に風呂場にも絵や香炉、花入、掛軸などを飾り、風呂上りに「闘茶」が催されたという。この風習は当時の喫茶文化の隆盛を反映するもので、多くの見物人が集まるほどの人気を博していた。
その後「茶の湯」「わび茶」「茶道」といった形で喫茶文化が確立していく過程で「淋汗の茶の湯」も次第に衰退するが江戸時代(1603年-1868年) 出雲・松江の『越前松平家七代/松平治郷(不昧)(1751年-1818年)』が建てた茶室「菅田庵」の待合には「蒸風呂」がついており「淋汗の茶の湯」の名残をとどめている。
❙淋汗❙
―りんかん―
「淋汗」とは、現代の入浴とは異なり、汗を軽く流す程度の簡易的な湯浴みを指す。