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茶道の歴史

03.喫茶文化の確立 ~ 鎌倉時代 ~

❙はじめに ~ 喫茶文化の確立 ~

「茶道の歴史」では、茶の起源から今日までの流れを全10回に分けて解説し、各時代における重要な史実をピックアップしてご紹介します。

前回「茶」は中国から日本へと伝来し、僧侶たちによって広められていきましたが遣唐使の廃止により「茶」が衰退することとなりました。

第3回では、衰退した「茶」がどのようにして日本独自の喫茶文化へと発展し、武士や公家、町人といったさまざまな階層に受け入れられていったのかを取り上げます。

本ページでは、茶が単なる飲み物としてではなく、精神性や礼法を伴う文化として確立されていく過程を詳しく見ていきます。喫茶の習慣が社会に根付き、後の茶道へとつながる基盤が形成されることは、今日の茶道を理解する上で欠かせない要素となりますので、その歴史的背景を紐解きながら、喫茶文化の発展について探っていきます。

それでは、「喫茶文化の確立」について詳しく見ていきましょう。

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❙喫茶法の渡来 ~ 日本最古の茶の専門書 ~

鎌倉時代(1185年-1333年)初期の建久二年(1191年)、仏教研究のために中国・宋代(960年-1279年)へ渡っていた臨済宗の開祖である『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』は「禅宗」と「抹茶法(茶の製造法や利用法)」を学び「茶の種(実)」と共に帰国しました。

帰国後、持ち帰った「茶の種(実)」を筑前国・背振山に蒔き、栽培を開始すると共に承元五年(1211年)には「茶」の効能、製造法、喫茶法を上下二巻の『喫茶養生記』として書き遺している。本書は上下二巻からなり、上巻では茶の効能や薬の効用、下巻では医学的効能を説いており、日本最古の『茶の専用書』とされています。

『喫茶養生記』には多くの中国文献が引用しており、当時の最新医学書の一つでもありました。そのことからも茶は単なる嗜好品ではなく、薬効を期待された飲物であったことが伺えます。

❙茶の薬用 ~ 二日酔いには茶? ~

この時代、中国・宋代(960年-1279年)から持ち帰られた茶は、それまで主流であった「団茶(固形茶)」ではなく湯に溶かして攪拌して飲む「碾茶」や「挽茶」と呼ばれる粉末状のもが主流となります。これは今日の「抹茶」に近いもですが、まだこの頃は薬用の目的が強く、嗜好品として楽しまれることは少なかったと考えられます。

​『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141-1215)』が日本に伝えた「抹茶」はそれまでの煮出して飲む「団茶」とは異なり、今日の「緑茶」に近い粉末を攪拌して飲む方法でした。このため茶の効果もより強く、抹茶は坐禅修行において眠気覚ましや栄養補給のために重宝されました。

やがて禅宗寺院の生活規範である「清規」にも「茶礼」として定められることとなり茶の飲用は僧侶たちの間で広く浸透していくこととなります。

​​前項の『喫茶養生記』には

「茶は末代養生の仙薬である 人の寿命を延ばす妙術である」​

とあり「陰陽五行」の考えを基に茶の苦みが人体によい影響があることを説かれています。このことからも茶が長寿の薬として認識されていたことがわかる。

さらに本書には医薬品としてのさまざまな薬用効果が記されており、その中には現代医学的にも証明されているものが少なくありません。

また鎌倉幕府が編纂した全五十二巻の歴史書『吾妻鏡』の中には『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192年-1219年)』が二日酔いに苦しんでいた際の逸話が記されています。

『[臨済宗/開祖]明菴栄西』は鎌倉・寿福寺の住職を務めていた建保二年(1214年)、『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝』から加持祈祷を依頼されるとともに「一服の茶」を勧めました。その際、茶の効能を説く書物として『喫茶養生記』を献上したとされています。

『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝』は茶を飲んだことで二日酔いはたちまち回復したと伝えられており、これにより茶の効能が広く知られるようになったと考えられます。

❙茶園の広がり ~ 茶の名産地の誕生 ~

鎌倉時代、茶の薬用効果が広く認識されるとともに、茶を飲む習慣は近畿を中心に徐々に広がっていきました。

『[臨済宗/開祖] 明菴栄西(1141年-1215年)』から茶を譲り受けた京都・栂尾の『高山寺(現・世界遺産)』の『明恵(1173年-1232年)』は、これを栽培し、後の「宇治茶」の基礎を築いたとされています。その後、明恵の手によって伊勢、駿河、武蔵へと茶の栽培が広がり、今日ではこれらの地はいずれも日本有数の茶の名産地として知られています。

また、奈良『[真言律宗総本山]西大寺』の僧『[西大寺第一世長老]叡尊(1201年-1290年)』は、延応元年(1239年)正月に行われた年始修法の結願日に、西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡に供茶した行事の余服茶を多くの衆僧に振る舞いました。この儀式は、現在も西大寺で行われている「大茶盛」の起源とされています。

さらに、『[西大寺第一世長老]叡尊』は鎌倉へ赴いた際、茶を持参し、旅の途中で近江・守山、美濃、尾張、駿河、伊豆などの九カ所で「諸茶」を行ったと『関東住還記』に記録されています。しかし、高齢での長旅を考えると、「諸茶」として振る舞うよりも、自らの栄養補給や薬用として飲んだ可能性も高いと考えられます。

その後、南北朝時代(1336年-1392年)に『虎関師錬(1278年-1346年)』が著した『異制庭訓往来』には、当時の銘茶の産地として京都各地、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵が挙げられています。これにより、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、寺院を中心とした茶園が関東へと広がり、茶の栽培が普及するとともに、茶を飲む習慣が一般の間にも広がっていったと考えられます。

​❙大 茶 盛❙

延応元年(1239年)1月16日、『[真言律宗総本山]西大寺』の僧『[西大寺第一世長老]叡尊』が西大寺復興の感謝を込めて鎮守八幡に供茶した行事の余服茶を多くの衆僧に振る舞ったことに由来する茶儀。

この儀式には二つの重要な意義があります。
第一に、「戒律復興」を目的とし、「不飲酒戒(酒を断つ戒律)」の実践として、酒盛の代わりに茶盛を行ったこと。
第二に、「民衆救済」の一環として、当時高価な薬とされていた茶を施茶することで、医療・福祉の実践を示したことです。

これらの理念は800年近く受け継がれ、今日も春秋の大茶盛式として4月第2土日と10月第2日曜に開催されています。

戒律の本質である「一味和合」の精神を体現する儀式として、両手で抱え顔が隠れるほどの大きな茶碗を回し飲みし、連客と助け合いながら結束を深める宗教的な茶儀です。

❙関 東 住 還 記❙

『[西大寺第一世長老]叡尊』が弘長二年(1262年)の2月から8月にかけて鎌倉に下向した際の旅の記録を弟子の『性海』が綴った記録書。

❙茶と禅 ~ 茶と禅の融合 ~

前項の通り禅僧の『[臨済宗/開祖]明菴栄西(1141年-1215年)』によって日本にもたらされた「喫茶法」は禅の教えに裏打ちされたものであり、当時の中国禅院ではすでに寺院内の生活規範を定めた「禅苑清規」が用いられており、その中には「茶礼」に関する記述が見られます。

『[臨済宗/開祖]明菴栄西』以降も日本からの留学僧は続き『[曹洞宗/開祖]道元(1200年-1253年)』は『[臨済宗/開祖]明菴栄西』の弟子である『[臨済宗]明全(1184年-1225年)』と共に中国・宋代(960年-1279年)へ渡り、四年後に帰国。その後『[曹洞宗/大本山]永平寺』を開創。

​また京都・紫野『大徳寺』の開祖『[大燈国師]宗峰妙超(1283年-1338年)』の師である『[大応国師]南浦紹明(1235年-1309年)』も文永四年(1267年)に帰国していることからも前述の「禅苑清規」が確実に日本へと定着していったことが推測されます。

また『[鎌倉幕府第三代征夷大将軍]源実朝(1192年-1219年)』をはじめとする将軍達が茶を嗜んでいたことや禅宗の広まりとともに「禅」と「茶」の結びつきはより強固なものとなり、その結果「喫茶法」は精神修養の側面を強めながら日本各地に広がり普及すると共に喫茶文化の確立へとつながることとなる。

❙喫茶文化の浸透 ~ 茶は薬?それとも嗜好品? ~

前項にて正史における「茶」の登場がはっきりとしたが本項ではその「茶」の木である「茶樹」がどの地域に起源を持つのかをご紹介していきます。

「茶樹」の起源(発祥地)には多くの諸説がありますが、中国・唐代(618年-907年)の『[文筆家]陸羽(733年-804年)』が書いた三巻十章から成る世界最古の「茶」に関する書物『[茶書]茶経』から推測することができます。

『[茶書]茶経』の冒頭には次のような逸話が記されています。

『ある日、牛飼いは禅僧が茶を喫すところを覗き見し「私にももらえないか?」と禅僧に尋ねました。すると禅僧は「茶というのは三つの徳がある薬である」とし、その一つは「眠気覚まし」、その二つは「体内消化」、その三つは「性欲抑制」である。と効果を説きました。

するとこの話を聞いた牛飼いは「そんな薬は結構です」とその場から立ち去ったといいます。

​この説話において牛飼いは茶を喫することはありませんでしたが、もともと寺院や武家社会に限られていた「茶」が一般民衆の間にも広がっていることを示唆しています。

❙喫茶文化の確立 ~ 茶の湯のはじまり ~

時を経るにつれて「薬」としての「茶」は一般民衆にも広まり、次第に嗜好飲料として喫する文化が浸透していくと共に「茶」の需要も増大させ、その生産を地域的にも量的にも拡大していくことになります。

鎌倉時代末期には喫茶を中心とした「茶寄合」などが盛んに行われるようになり、また武士階級においても喫茶が社交の道具として浸透していきました。

特に武士の間では「茶」を飲み比べ、その「銘柄(産地)」をあてる「闘茶」や「茶香服(茶歌舞伎)」などの遊戯が流行し、これにより『抹茶法(茶の湯)』がさらに発展していきます。

こうして薬用の茶から禅と深く結びつきながら日本の文化として確立されていく時代を迎えることとなります。

さらに当時の中国貿易によって中国・宋代の「文物(唐物)」が大量に輸入されたことも「茶の湯」が確立される一つの要素として大きな役割を果たす要因となります。

❙唐物道具の登場 ~ 茶道具の出発点 ~

鎌倉時代(1185年-1333年)後期から室町時代(1336年-1573年)初頭にかけて、日本は中国・宋代(960年-1279年)や中国・元代(1271年-1368年)との貿易を活発に行い多くの貿易船が派遣されました。

その結果、「墨蹟」や「茶入」「天目」「花入」「香炉」「織物」などの工芸品や「書物」「薬品」などが数多く輸入されました。

これらの輸入品は一括して「唐物」と尊重され特に「茶」を喫する際の『茶道具』として重宝されるようになります。

この様子は鎌倉時代末期の頃に鎌倉幕府第十二代連署である『第十五代執権/金沢貞顕(1278年-1333年)』の手紙にも記されており

「鎌倉では唐物を使った茶がたいへん流行しています」

と記されている。

さらに昭和五十一年(1976年)に行われた当時の輸入状況の調査では、中国から朝鮮半島を経由し日本に向かう途中に沈没した外洋帆船から約2万点にも及ぶ陶磁器が発見されました。その中には「至治三年(1323年)六月一日」と記された荷札や、のちに「茶の湯」で用いられる「茶入」「花入」「天目」などが発見されており、当時「茶の湯」の道具が大量に輸入されようとしていたことが明らかになっています。

❙闘 ~ 茶は危険なギャンブル? ~

前項の喫茶文化の確立にともない、当時はさまざまな喫茶方法が行われていました。

その中で、飲んだ「水」の産地を当てる遊戯である「闘水」が流行しており、それと同様に「茶」を飲み比べ「銘柄(産地)」「品質」「味」を当てる一種の博打である「闘茶」が武士の間で盛んに行われるようになる。

初めは『[臨済宗/開祖] 明菴栄西(1141年-1215年)』が京都・栂尾の『高山寺(現:世界遺産)』の華厳宗中興の祖と称される『明恵(1173年-1232年)』に贈り、栽培された茶を「本茶」とし、それ以外の産地の茶を「非茶」として飲み当てる簡単な遊びであった。

しかし次第にルールも複雑になり、時には数日間にわたって行われ「砂金」や「刀」「唐物」などの豪華な景品が懸けられることもあったという。

​このような豪華な景品をかけた『[武将]佐々木道誉(1296年-1306年)』の「闘茶会」の様子は南北朝時代に記された四十巻からなる『太平記(作者不明)』に詳しく描かれており、華麗・贅沢を好む『バサラ大名』の茶の嗜みとして広く知られている。

しかし「闘茶」は貴族や武士だけでなく庶民にまで流行したことから室町幕府は建武三年(1336年)十一月七日に政治方針を定めた法令『建武式目』の中で

「闘茶は贅沢で危険な集まりである」

として禁止するが「闘茶」の人気は衰えず「闘茶」はその後も100年以上にわたり続く事となる。

❙バサラ大名❙

―ばさらだいみょう―

「バサラ」とは主に南北朝時代(1336年-1392年)の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、当時の流行語「異風異体」とも呼ばれ奇抜なものを好む美意識をいう。特に佐々木道誉は「バサラ大名」の象徴的な存在で、放埒、傲慢な常軌を逸した数多くの奇行が伝えられている。

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