
千利休宗易
10.ゆかりの人々
❙はじめに ~ ゆかりの人々 ~
「千利休宗易」では『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の出自からゆかりの人々まで、全10回にわたり解説し、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が茶の湯に遺した教えや功績を詳しくご紹介します。
「ゆかりの人々」では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』と関わりのあった人物について詳しくご紹介します。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』は、師や弟子、大名、門人など多くの人物と関わりながら、茶の湯を発展させていきました。『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の没後に茶の湯と思想を受け継ぎ、後世に伝えた人々を知ることで、茶道の歴史がより立体的に見えてくるでしょう。
それでは、「ゆかりの人々」について詳しく見ていきましょう。
❙ゆかりの人々 ~ 利休の師 ~
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の茶の湯は、先人たちの思想や技法を受け継ぎ、独自に磨き上げることで大成されました。その根幹には「禅の教え」と「茶の湯の精神」があり、これらを『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』に伝えたのが次に挙げる三人の師とされています。
以下では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』に大きな影響を与えた三人の師について紹介します。
茶匠
❙北向道陳 (きたむき・どうちん)
永正元年(1504年)-永禄五年(1562年)一月十八日
室町時代後期の堺の茶匠で、空海に茶の湯を学ぶ。千利休の最初の師であり、後に、武野紹鴎に利休を推薦し引き合わせたといわれます。道陳の茶は、能阿弥の影響が強い書院の茶とされています。
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大徳寺住持
❙古渓宗陳 (こけい・そうちん)
天文元年(1532年)-慶長二年(1597年)一月十七日/六十六歳
安土桃山時代、臨済宗の禅僧であり、蒲庵古渓(ほあんこけい)とも呼ばれます。大徳寺の住持となり千利休に禅を教え参禅の師となります。
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茶匠
❙武野紹鷗 (たけの・じょうおう)
文亀二年(1502年)-弘治元年(1555年)十月二十九日
室町時代末期の堺の武具商人で、歌人であり茶匠。大徳寺で禅の修行をし、「紹鴎」の号を得る。
十四屋宗伍に茶を学び、茶の湯の簡素化、草体化を進め侘茶を完成させる。北向道陳に次ぐ千利休の茶の湯の師として知られています。
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❙ゆかりの人々 ~ 天下三宗匠 ~
天下三宗匠とは、『[大名]織田信長(1534年-1582年)』および『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』のもとで、茶の湯を支えた三人の茶匠を指します。
それぞれ異なる立場や流派を持ちながらも、茶の湯の発展に大きく貢献し、その名を歴史に刻みました。
以下では、『千家開祖 / 抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』と並び、「天下三宗匠」と称された茶人たちを紹介します。
茶匠
❙今井宗久 (いまい・そうきゅう)
永正十七年(1520年)-文禄二年(1593年)八月五日/七十三歳
戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人。堺にて茶を武野紹鴎に学び、その後娘婿となる。
千利休、津田宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、織田信長の茶頭となり、本能寺の変後は豊臣秀吉にも茶頭として仕える。
茶会記として『今井宗久茶湯書抜』二巻があり、八十三回の茶会記が収められている。
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茶匠
❙津田宗及 (つだ・そうぎゅう)
生年不詳-天正十九年(1591年)四月二十日
安土桃山時代の堺の豪商で、武野紹鴎の門人であった父宗達に茶道を教わり、織田信長、次いで豊臣秀吉の茶頭を務める。また、大徳寺で禅を学び千利休、今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せらる。
北野天満宮で開催した北野大茶湯ではこの三人が指導役をつとめる。
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❙ゆかりの人々 ~ 利休三門衆 ~
利休三門衆とは、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の門弟の中でも、特に重んじられた三人の武将を指します。
彼らは『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の茶の湯を学び、その精神を戦国の世において実践し、広める役割を果たしました。茶人であると同時に武将としても名を馳せた彼らの存在は、茶の湯が武家社会に深く浸透していく契機となりました。
以下では、「利休三門衆」と称される三人の武将について紹介します。
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❙蒲生氏郷 (がもう・うじさと)
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❙細川忠興(三斎) (ほそかわ・ただおき・さんさい)
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武将
❙芝山宗綱(監物) (しばやま・むねつな・けんもつ)
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安土桃山時代の武将で、初めは織田信長に仕え後に豊臣秀吉に従う。
千利休に茶道を学び、蒲生氏郷、細川忠興と共に茶湯に優れた人物として利休門三人衆に数えられた武将の一人。天正九年(1581)には津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を行なっている。利休から長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られるなど、利休とは懇意であった。
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❙ゆかりの人々 ~ 利休七哲 ~
利休七哲とは、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』に師事し特に深くその茶の湯を学んだ七人の大名・武将を指します。なお「利休七哲」の名称は後世になってからの呼称である。
この名称の初見は『塗師/松屋久重(1567-1652)』が編纂した『茶道四祖伝書』において「七人衆」として「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「前田利長」、の名が挙げられたことに遡ります。
また寛文三年(1663年)に『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613年-1672年)』が記した『江岑夏書(1663年)』にも「利休弟子七人衆」とし記述があり、こちらでは「前田利長」に代わり「瀬田掃部」が加えられている。
その後、さまざまな茶書において「有馬豊氏」や「金森長近」などが加わるなど、挙げられる七人の顔ぶれに変化がみられるが、一貫して「蒲生氏郷」と「細川忠興」の二人は常に記録されている。
今日の一般的な認識では『江岑夏書(1663年)』に記された「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」「高山南坊」「牧村兵部」「古田織部」「瀬田掃部」の七人が「利休七哲」として広く知られています。
以下では、「利休七哲」と称された七人の武将について紹介します。
※「蒲生氏郷」「細川忠興」「芝山監物」については前項の「利休三門衆」にて記述しています。
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❙高山南坊(右近) (たかやま・みなみのぼう・うこん)
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茶人
❙牧村利貞(兵部) (まきむら・としさだ・ひょうぶ)
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武将
❙古田重然(織部) (ふるた・しげなり・おりべ)
天文十二年(1543年)-慶長二十年(1615年)六月十一日/七十三歳
戦国時代後期から江戸時代初期にかけての武将。千利休の弟子として利休七哲に数えられ、利休が秀吉の怒りをかい、堺に蟄居を命じられた際、秀吉の権威を恐れず細川忠興と共に淀の船着場まで見送りに行っている。千利休亡きあとは、織部流の武家茶道を確立し、茶の湯名人として天下の茶人になり、またその作意は織部好みとよばれ、茶室に興福寺八窓庵、藪内家燕庵などがあり、織部焼、織部灯籠などにその名をとどめている。
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武将
❙〇前田利長 (まえだ・としなが)
永禄五年(1562年)一月十二日-慶長十九年(1614年)五月二十日/五十三歳
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、初代加賀藩主。父と共に織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。文禄二年(1593年)十月、前田利長の邸宅にて茶会を開き、徳川家康を招く。
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武将
❙〇瀬田正忠(掃部) (せた・まさただ・かもん)
天文十七年(1548年)-文禄四年(1595年)八月十日/四十八歳
戦国時代の武将で、豊臣秀吉に仕える。通称清右衛門。官位に由来する「瀬田掃部」という名で知られる。茶人であり、千利休の高弟。また茶杓削りの名手で、多くの茶杓が今日まで伝えられている。
文禄四年(1595年)に、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられた豊臣秀次と共に処刑される。
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武将
❙●有馬豊氏 (ありま・とよじ)
永禄十二年(1569年)五月三日-寛永十九年(1642年)九月三十日/七十四歳
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、初めは豊臣秀吉に仕える。秀吉の死後、徳川家康に仕え家康の養女連姫(松平康直の娘)を妻とする。茶人としても有名で、千利休の高弟であり利休七哲の一人で家康から燕脂屋肩衝の茶入を贈られている。
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茶人
❙●金森長近 (かなもり・ながちか)
大永四年(1524年)-慶長十三年(1608年)八月十二日
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、茶人。織田家に仕官して織田信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕える。千利休や古田重然らに茶の湯をならい、茶の道においては孫の金森宗和によって金森家の茶道は大成を成し遂げます。
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❙ゆかりの人々 ~ 利休十哲 ~
「利休十哲」とは寛政年間(1789年~1801年)頃に著された「古今茶人系譜」以降にみられるもので前項の「利休七哲」に「織田有楽斎」「千道安」「荒木村重」の三人を加えた十人の呼称です。
以下では、「利休十哲」と称された人物について紹介します。
※「利休三門衆」「利休七哲」に含まれる人物については前項にて記述しています。
織田信長の弟/茶人
❙織田長益(有楽斎) (おだ・ながます・うらくさい)
天文十六年(1547年)-元和七年(1621年)十二月十三日/七十五歳
織田信長の十三歳年下の弟であり、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。千利休に茶道を学び、利休七哲(十哲とも)の一人で、本能寺の変の後、剃髪して有楽斎と称し茶道有楽流を創始。京都建仁寺の正伝院に茶室如庵(国宝)を建てる。如庵は現在、愛知県犬山市の有楽苑に移されています。
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千利休の長男/茶人
❙千紹安(道安) (せん・しょうあん・どうあん)
天文十五年(1546年)-慶長十二年(1607年)二月十七日/六十二歳
千宗易(千利休)の長男で、安土桃山時代から江戸前期の茶人。父利休とともに茶頭として豊臣秀吉に仕える。利休の死後は、京都を離れるが文禄三年(1594年)に徳川家康や前田利家の計らいにより堺に戻ったのち「堺千家」を再興。しかし、道安には跡継ぎがなく、道安の死去と共にこの堺千家は断絶する。
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茶人
❙荒木村重(道薫) (あらき・むらしげ・どうくん)
天文四年(1535年)-天正十四年(1586年)五月四日/五十二歳
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、茶人。初めは池田氏、さらに三好氏に属し、天正一年(1573年)に織田信長に仕える。信長の死後は、茶の道で豊臣秀吉に仕え、そこで茶人「道薫」として復帰。千利休とも交流するなど、意外な才能を示し利休七哲(十哲とも)の一人として数えられる。
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