
千利休宗易
02.利休の生涯
❙はじめに ~ 利休の生涯 ~
「千利休宗易」では『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の出自からゆかりの人々まで、全10回にわたり解説し、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が茶の湯に遺した教えや功績を詳しくご紹介します。
「利休の生涯」では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の生涯を辿り、茶道を大成しながらも最期は自害に至ったその激動の生涯を詳しくご紹介します。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』は、戦国時代という激動の時代を生きながら、茶の湯を通じて独自の美意識を確立しました。
『[大名]織田信長(1534年-1582年)』『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』という二人の天下人に仕えながら、茶の湯を文化へと昇華させ、のちに「わび茶」として完成させました。しかし、『[関白/太閤]豊臣秀吉』との確執によって自害へと追い込まれ、その最期は今日も多くの謎に包まれています。
その生涯を紐解くことで、どのようにして茶の湯を大成させ、後世へと受け継がれていったのかを知ることができます。
それでは、「利休の生涯」について詳しく見ていきましょう。
❙利休の生涯 ~ 生涯・事績 ~
❙生い立ち❙
大阪・堺の『商家(屋号「魚屋」)』であり、『納屋衆(倉庫業)』を営む『[父]田中与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540年)』と『[母]月岑妙珎(生没享年不詳)』の子として田中家に生まれる。幼名は『与四郎』。
天文四年(1535年)、堺の鎮守である「大念仏寺」の築地修理に関する「大念仏寺念仏頭人差帳」の寄進者の中に「今市町 与次郎殿せん』と記されており、すでに十四歳のこの頃には堺の町衆として活動していたことがわかり、同時に納屋衆(倉庫業)を担っていた事も裏付けられる。
十七歳にて『[茶匠]北向道陳(1504年-1562年)』の門を叩き「茶の道」に入り、次に当時の茶の湯の第一人者であった『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』に師事し、ともに茶の湯の改革に取り組むこととなる。また『大徳寺九十世/大林宗套(1480年-1568年)』『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490年-1568年)』に参じ「禅旨」を学び、二十歳の頃には得度受戒し「宗易」の号を授かる。
❙宗易❙
法名「宗易」の初見は天文十三年(1544年)二月の「千宗易会」と「松屋会記」に記されている。しかし「松屋会記」は後世の編集によるものであり、しかも現存するのは転写本であるためその確実性には疑問が残る。また「宗易」の教授者としては『大徳寺九十世/大林宗套』および『大徳寺百七世/笑嶺宗訢』の両者があげられるが詳細は不詳。
当時の堺は「町人の都」として全盛を極めており、町ぐるみで「茶の湯」を楽しんでいたとされる。堺衆の中の代表的な茶人としては『[茶人]津田宗達(1504年-1566年)』と『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591年)』の父子をはじめ『[豪商/茶人]武野紹鷗』の娘婿である『[茶人/天下三宗匠]今井宗久(1520年-1593年)』らとともに『宗易』の名もこれらの茶人と並び称されることとなる。
宗易は、商家の出身でありながらも、茶の湯の探求と革新に努め、やがて堺の茶文化を代表する茶人へと成長していくこととなる。
❙信長との関り❙
元亀四年(1573年)、『[大名]織田信長(1534年-1582年)』は再上洛の際に堺の掌握を図り、これにより堺の町衆には動揺が広がったが、『[茶人/天下三宗匠]今井宗久』はいち早く『[大名]織田信長』に帰属したが堺衆の中には反抗の動きも見られた。
(※なお『[茶人/天下三宗匠]今井宗久』を召した理由には『[茶人/天下三宗匠]今井宗久』が所持していた『紹鴎茄子茶入』の取得を目的とし、茶の湯の権威を示そうとした意図があったと考えられる。)
同年『[大名]織田信長』は『室町幕府十五代将軍/足利義昭(1537年-1597年)』を追放し、室町幕府を滅ぼして織田政権を確立。この折『[茶人/天下三宗匠]津田宗及(生年不詳-1591年)』に前後して「宗易」も『[大名]織田信長』の茶匠として召し抱えられることとなる。
『[大名]織田信長』の茶の湯には京衆の『不住庵梅雪(生没享年不詳)』らが参仕していたが『[茶人/天下三宗匠]今井宗久』『[茶人/天下三宗匠]津田宗及』『宗易』の三名は優遇され『天下三宗匠』と称されるようになった。
天正八年(1580年)紫野大徳寺門前に屋敷を構え、後妻の『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600年)』の連れ子である『[養子]千少庵宗淳(1546年-1614年)』を上洛させる。この際、四畳半の座敷を設け、そこに『不審庵』の額を掲げたといわれる。
この時期、宗易の茶の湯はさらに洗練され、やがて『[大名]織田信長』の死後も、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』のもとで「わび茶」の完成へと向かうこととなる。
❙秀吉時代❙
天正十年(1582)の「本能寺の変」により『[大名]織田信長』が没すると『抛筌斎千宗易(利休)』は『[関白/太閤]豊臣秀吉』に仕え、茶頭および側近として仕える。
同年『[大名]織田信長』の『百日忌法要』が『大徳寺百十七世/古渓宗陳』によって修されるが、この際に抛筌斎千宗易(利休)』は『[豪商/茶人]山上宗二(1544年-1590年)』『[商人]博多屋宗寿(1570年-1659年)』を誘い、施主を努める。
その後『[関白/太閤]豊臣秀吉』の側近として聚楽第内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関与するなど秀吉政権下において「茶人」としての地位と名声を確立。さらに三千石の禄を賜るなど、茶人として異例の厚遇をうけることとなる。
天正十三年(1585年)、『[関白/太閤]豊臣秀吉』が関白に就任するにあたり、関白拝賀の「禁中茶会」に参仕。『百六代天皇/正親町天皇(1517年-1593年)』より『利休居士』の号を賜る。これにより『[関白/太閤]豊臣秀吉』の天下統一とともに『抛筌斎千宗易(利休)』の茶の湯が大成することとなる。
当時の『抛筌斎千宗易(利休)』の重用ぶりは、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の弟である『[大名]豊臣秀長(1540年-1591年)』を凌ぐものであり、大阪城を訪れた『[大名]大友宗麟(1530年-1587年)』が『[大名]豊臣秀長』に対して政務について尋ねた際、『[大名]豊臣秀長』自身から「公儀の話は私(秀長)に、内輪の話は利休にするよう
に」と語るほどであったとされる。
このように、『抛筌斎千宗易(利休)』は単なる茶匠にとどまらず、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の政治・文化政策にも深く関与し、茶の湯の世界において絶対的な地位を確立することとなった。
❙秀吉との対立❙
天正十五年(1587年)、『北野大茶湯』が催され、『抛筌斎千宗易(利休)』はその主管を努めた。しかしこの頃から『[関白/太閤]豊臣秀吉』との関係は悪化し、『抛筌斎千宗易(利休)』の後ろ盾でもあった『[大名]豊臣秀長』の死後、その影響力は急速に衰えるようになる。
天正十九年(1591年)、ついに『抛筌斎千宗易(利休)』は『[関白/太閤]豊臣秀吉』の逆鱗に触れ、堺への蟄居』を命じられる。(罪因については事項にて記述)
その後、『[加賀藩主]前田家初代/前田利家(1539年-1599年)』をはじめとする多くの大名や『利休七哲』の『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544年-1615年)』『[武将/利休門三人衆]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563年-1646年)』や門弟たちが奔走し、助命を求めたがついに赦されることはなかった。
そして「抛筌斎千宗易(利休)」は京都へ呼び戻され、聚楽屋敷内で切腹を命じられることとなる。この際『[関白/太閤]豊臣秀吉』は多くの弟子たちによる利休奪還の恐れを警戒し『[五大老/大名]米沢上杉家二代/上杉影勝(1556年-1623年)』の軍勢に屋敷を取り囲ませたという。
その後「抛筌斎千宗易(利休)」の首は京都・一条戻橋で梟首され、さらにその首は賜死の一因となった大徳寺山門の「利休像」に踏ませる形で晒されたたという。
この処遇は、単なる死刑を超えた見せしめの意味を持ち、秀吉の怒りの深さを示すものであった。
こうして、「抛筌斎千宗易(利休)」は、茶道史において最も大きな影響を与えた人物としてその生涯を閉じた。しかし、その精神と「わび茶」の理念は、彼の弟子たちによって脈々と受け継がれていくこととなる。
❙利休の生涯 ~ 居士号 ~
一般的に知られる「利休」の名は『利休居士』という居士号であり、天正十三年(1585年)の「禁中茶会」に際し、町人の身分では参仕できないために『百六代天皇/正親町天皇(1517年-1593年)』から勅謚として賜ったものとされている。
しかしさまざまな史料を検証すると時代的な不合理が見受けられる。
慶長四年(1599)、『千少庵宗淳(1546年-1614年)』が『大徳寺百二十二世/仙嶽宗洞
(1544年-1595年)』に「利休」号の解議を求めた際、次のように述べている。
「先皇正親町院、忝(かたじけな)くも利休居士の号を賜う」
また慶長十年(1605年)、『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546年-1607年)』が『大徳寺百十一世/春屋宗園(1529年-1611年)』に「利休」号の解議を求めたところ『大徳寺百十一世/春屋宗園』は「利休」号は「宗易禅人の雅称」であり、先師である『大徳寺九十世/大林宗套(1480年-1568年)』が、以下の偈頌を賦して授けたと伝えている。
『参得宗門老古錐/平生受用截流機/全無伎倆白頭日/飽対青山呼枕児』
(※宗門に参得せる老古錐/平生受用す、截流せつるの機/全く伎倆無し、白頭の日/全く伎倆無し、白頭の日/青山に対するに飽あいて枕児を呼ぶ)
この遺偈の意味は「悟りをえた者もなお悟りを求める境地」を示し、千利休が禅と茶の湯を融合させた思想を象徴するものとされる。
この説によると「利休」号は『大徳寺九十世/大林宗套』より授けられたことになるが、『大徳寺九十世/大林宗套』は「禁中茶会」の十七年前の永禄十一年(1568年)に没していることから、「禁中茶会」が開催された天正十三年(1585年)とは17年の隔たりがある。このことから、従来の説と整合しない点が生じる。
もし『大徳寺九十世/大林宗套』が「利休」の号を授けたとすれば幼名「与四郎」と称した天文四年(1535年)から天文十三年(1544年)以前にはすでに「宗易」と号し、さらにその時点で「利休」の名も授かっていた可能性がある。
また「禁中茶会」二年前の天正十一年(1583年)、『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532年-1597年)』によって描かれた「肖像画(正木美術館蔵)」に『利休宗易禅人』の名が記されており、これは「利休」の名が「禁中茶会」以前にすでに確立していたことを示唆する。
しかし当時「抛筌斎千宗易(利休)」は『大徳寺百十七世/古渓宗陳』と深い交流があったため『大徳寺九十世/大林宗套』が「利休」の名を授けたという説には不合理な点も残る。
また『利休書状』では天正十三年(1585年)以前には「利休」という署名のないことから、天正十三年(1585年)の居士号勅諡に際して『大徳寺百十七世/古渓宗陳』が急遽撰び授けたものではないかとする見方もある。
いずれにせよ「利休」の名は娩年の頃の名であり、生涯のほとんどは「宗易」と名乗っている。
❙利休の生涯 ~ 罪因 ~
「抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)」の死罪に関しては確実な史料に基づく『大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件』と『茶器売買にかかわる不正』の二つの罪状が確認されている。一件の二つの罪が歴史史料によりわかる。しかしながら、これらの罪が切腹という極刑に値するかについては疑問の余地があり、その他の政治的要因が絡んでいた可能性も指摘されている。
❚『大徳寺三門(金毛閣)』に自らの木像を安置した一件 ❚
「抛筌斎千宗易(利休)」は、晩年に大徳寺三門(金毛閣)に自身の木像を安置したとされ、これが『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の怒りを買う決定的な要因になったと考えられている。
伊達家の家臣である『[伊達家家臣]鈴木新兵衛(生没享年不詳)』は京都・一条戻橋に梟首された首を目にし、その旨を国元の家老『[伊達家家老]石母田景頼(1559-625)』に充てた書状には、次のように記されている。
「茶の湯天下一宗易(利休)、無道の刷い年月連続のうえ、御追放。行方なく候。しかるところに、右の宗易、その身の形を木像にて作り立て、紫野大徳寺に納められ候を、殿下様(秀吉)より召し上され、聚楽の大門もどり橋と申し候ところに、張付けにかけさせられ候。木像の八付、誠に誠に前代未聞の由し、京中において申すことに候。見物の貴賤、際限なく候。右八付の脇に色々の科ども遊ばされ、御札を相立てられ候。おもしろき御文言、あげて計うべからず候。」
(訳:直接の罪状は自身の木像。その木像は秀吉の命により磔にされた。その他の罪状の逐一が、その脇の高札に面白おかしく列挙されていた)
また『[公家]勧修寺晴豊(1544年-1603年)』の日記『晴豊公記』には次のような記述がある。
「大徳寺山門に利休木像つくり、せきだという金剛はかせ、杖つかせ、造り置き候こと、曲事なり。その子細、茶の湯道具新物ども、くわんたいにとりかわし申したるとのことなり」
(訳:木像に雪駄をはかせ、そのうえ杖までつかせるとは、いかにも俗人をあしらったもので、とても聖なる大徳寺の山門に安置するにはふさわしくない。なにより大徳寺の山門といえば、関白秀吉をはじめ、天皇、公家・諸大名など、歴々の衆が訪れるところであるから、まさしく適正性を欠いた行為と見ざるをえない。)
このことから、『抛筌斎千宗易(利休)』の木像の安置が、『[関白/太閤]豊臣秀吉』にとって極めて不敬であったと見なされたことがわかる。
❚ 茶器売買にかかわる不正の件 ❚
『抛筌斎千宗易(利休)』が茶道具を高額にて売買した『茶器売買にかかわる不正』の一件についても以下の歴史史料より、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の怒りを買ったことがわかる。
前述の『[伊達家家臣]鈴木新兵衛』の書状には次のように記されている。
「スキ者の宗益 今暁切腹り了ンヌト。近年新儀ノ道具ドモ用意シテ 高値二売ル。マイスの頂上ナリトテ 以テノ外。関白殿御立腹」
※数寄者の宗易、今暁、切腹し終えたり。近年、新たな茶道具を作り、高値で売買していた。これが行き過ぎたものであり、関白(秀吉)が激怒した。
またこちらも前述の『[公家]勧修寺晴豊』の日記『晴豊公記』にも、
「その仔細は茶湯道具の新物などをも緩怠に取換はし」
※その仔細は、茶湯道具の新物などをも不正に取引したことにある。
とあり茶道具売買における不正が処罰の理由とされたことがわかる。
さらに『興福寺多聞院住職/多聞院英俊(1518年-1596年)』の日記『多聞院日記』の天正十九年(1591)二月二十八日の条には、
「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」
※数寄者の宗易、今暁、腹切り終えたり。近年、新儀の道具を用意し、高値にて売る。売僧の極みなりとして、関白殿、激怒せらる。
と記されており、『抛筌斎千宗易(利休)』が茶道具の価格を釣り上げ、独占的に売買していたことが問題視されたことがわかる。
このように上記の史料からもわかるように『大徳寺三門(金毛閣)に自らの木像を安置した件』と『茶器売買にかかわる不正』の二つの罪状が確実なものとして記録されるている一方で、政治的・個人的な背景があったのではないかという説も数多く存在する。
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『[関白/太閤]豊臣秀吉』との茶の湯に対する考えの相違
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『[関白/太閤]豊臣秀吉』の嫉妬
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『[関白/太閤]豊臣秀吉』が『抛筌斎千宗易(利休)』の四女『[四女]吟(生没享年不詳)』を妾に臨んだが、それを『抛筌斎千宗易(利休)』が拒否したこと
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「抛筌斎千宗易(利休)」の権力が増大しすぎたことへの『[関白/太閤]豊臣秀吉』の恐怖心
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朝鮮出兵への反対、批判
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豊臣秀長派(大政所派)と淀君・石田三成派の政権争いに巻き込まれた
特に「抛筌斎千宗易(利休)」の庇護者であった『[大名]豊臣秀長』の死後、石田三成が台頭し、石田三成の策謀が「抛筌斎千宗易(利休)」の失脚を招いたとする見方もある。
このように、千利休の死の真相には未だ多くの謎が残されており、新たな研究によってさらなる解明が求められている。
❙利休の生涯 ~ 死後 ~
「抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)」の死後、その住居であった聚楽屋敷は取り壊されましたが、利休七哲の一人でもある『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563年-1646年)』が健創した大徳寺/高桐院に利休の聚楽屋敷の一部とされる書院が残っている。
「抛筌斎千宗易(利休)」の茶の湯の後継者には以下の人物が挙げられる。
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『[先妻]宝心妙樹(生年不詳-1577年)』の嫡男『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546年-1607年)』
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『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600年)』の連れ子『[養子]千少庵宗淳(1546年-1614年)』
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『[次女]不明(生没享年不詳)』の夫『[茶人]万代屋宗安(生年不詳-1594年)』
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『[弟]千宗把(生没享年不詳)』の子『[甥]千紹二(生没享年不詳)』
しかし『[長男(先妻)]千(眠翁)道安』と『[養子]千少庵宗淳』は「抛筌斎千宗易(利休)」の死罪に連座する形で蟄居を命じられ、「千家」は一時取り潰し状態となる。
その間は『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の茶頭には『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544年-1615年)』が就き、さらに『[大名/利休十哲]有楽流開祖/織田(有楽斎)長益(1548年-1622年)』や『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興』らが、わび茶の道系を引き継ぐぐこととなる。
「抛筌斎千宗易(利休)」の自害後、文禄四年(1595年)頃、『[征夷大将軍]徳川家康(1543年-1616年)』と『[加賀藩主]前田家初代/前田利家(1539年-1599年)』の取り成しにより、『[長男(先妻)]千(眠翁)道安』と『[養子]千少庵宗淳』は赦免されることとなる。
❙堺千家❙
赦免後、『[長男(先妻)]千(眠翁)道安』が本家の「堺千家」の家督を継承するが、子がなかったため『[長男(先妻)]千(眠翁)道安』の死後「堺千家」は断絶することとなる。
❙京千家❙
一方の『[養子]千少庵宗淳』は「京千家」を再興し、のちに「三千家」が誕生する。
『[養子]千少庵宗淳』の子である『千家三代/咄々斎元伯宗旦(1578年-1658年)』は、大徳寺の喝食であったが、還俗して茶の湯を継承し、京都の「本法寺」前に屋敷を構えた。
その後、『千家三代/咄々斎元伯宗旦』の三人の息子がそれぞれの流派を興し「三千家」として今日に至る。
『[三男(後妻)]表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613年-1672年)』
▶『表千家/不審庵』を創建
『[四男(後妻)]裏千家四代/臘月庵仙叟宗室(1622年-1697年)』
▶『裏千家/今日庵』
『[次男]武者小路千家四代/似休齋一翁宗守(1605年-1676年)』
▶『武者小路千家/官休庵』
また江戸時代中期の茶人『[茶人]久須美疎安(1636年-1728年)』の『茶話指月集』によると、『千家三代/咄々斎元伯宗旦』は、『[関白/太閤]豊臣秀吉』から「数寄道具長櫃三棹」を賜ったと伝えられ。これは、利休の遺愛の茶道具が三千家に受け継がれていったことを示している。
❙利休の生涯 ~ 史料 ~
「抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)」を知る上で、貴重な文献史料として以下のものが挙げられる。
❙一級資料❙
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『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)』の『山上宗二記』
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『[僧/茶人]南坊宗啓(生没享年不詳)』の『南方録』
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『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』の『織部百ヶ条』
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『[茶人]松屋久重(1567-1652)』の『松屋会記』『茶道四祖伝書』
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『[茶人]久須美疎安(1636-1728)』の『茶話指月集』
これらの史料には、「抛筌斎千宗易(利休)」の茶の湯の思想や作法、歴史的背景に関する記録が詳細に残されている。特に、『山上宗二記』 では、「抛筌斎千宗易(利休)」が 六十歳まで村田珠光・武野紹鷗の茶の道を踏襲し、天正十年(1582年)の「本能寺の変」以後の六十一歳から自身の茶を確立したと述べられている。
❙千家❙
千家においては「不立文字(文字に頼らない精神の伝承)」が基本とされるが、以下の文献が残されている。
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『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613-1672)』の『江岑夏書』『千家系譜』『千利休由緒書』
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『表千家五代/随流斎良休宗左(1650-1691)』の『隋流斎延紙ノ書』
これらは、千家の系譜や利休の由緒、茶の湯の伝承を後世に伝えるための重要な記録である。
❙自筆❙
また上記の史料以外にも多くの文書を遺しており、その中には茶道具に添えた文や、門弟・知人に宛てた書状が含まれている。
『武蔵鐙の文』(東京国立博物館蔵)
▶『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』に宛てた書状。
『蟄居見舞いの返書』(裏千家今日庵蔵)
▶『[武将/利休門三人衆/利休七哲]芝山(監物)宗綱(生没享年不詳)』に宛てた書状。
『手桶の文』(表千家不審庵蔵)
▶『[塗師]喜三(生没享年不詳)』に宛てた書状。
『大仏普請の文』(大阪城天守閣蔵)
▶『伊勢待従』に宛てた書状。
『大徳寺門前の文』(大阪城天守閣蔵)
▶平野勘兵衛(生没享年不詳)に宛てた書状。
『永代供養の文』(大徳寺聚光院蔵)
▶大徳寺/聚光院に宛てた書状。
これらの書状は、千利休の思想や当時の状況を知る上で極めて貴重な資料となる。
「抛筌斎千宗易(利休)」の自筆の真蹟や書状(「利休の文」「利休消息」など)は『[大名]織田信長』参仕以前の物はほぼ現存せず『[関白/太閤]豊臣秀吉』の参仕時代の物が中心となっている。
また、「抛筌斎千宗易(利休)」の署名には以下の変遷が見られる。
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天正十三年(1585年)以前 → 「抛筌斎宗易」
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天正十三年(1585年)以後 → 「利休宗易」
これは、天正十三年の「禁中茶会」で「利休居士号」を勅賜されたことに起因すると考えられる。
さらに、利休の書状については代筆の可能性が指摘されており、「祐筆(代筆者)」として 『鳴海宗温(生没享年不詳)』 が知られているが、長男の『[長男(先妻)]千(眠翁)道安』や『[養子]千少庵宗淳』が代筆した可能性も指摘されている。