
千利休宗易
09.利休の茶室
❙はじめに ~ 利休の茶室 ~
「千利休宗易」では『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の出自からゆかりの人々まで、全10回にわたり解説し、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が茶の湯に遺した教えや功績を詳しくご紹介します。
「利休の茶室」では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が確立した「草庵茶室」について詳しくご紹介します。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が生み出した「極限まで無駄を省いた茶室」や「躙り口」「露地」などの革新的な設計は、単なる建築様式を超え、日本建築全体に影響を与えました。その思想を探ることで、茶室の持つ本来の意味が見えてきます。
それでは、「利休の茶室」について詳しく見ていきましょう。
❙利休の茶室 ~ 利休の茶室 ~
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』それまでの「書院茶湯」の形式を大きく変え、茶の湯の本質を追求した「草庵茶室」を創出しました。この茶室は、茶の湯を単なる儀式的なものから、亭主と客人が真に向き合い、心を通わせるための場として設計されました。
それまで「四畳半」が最小単位とされていた茶室をさらに縮小し、「二畳」「三畳」という極限まで無駄を省いた空間を取り入れました。この茶室の設計には、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の茶の湯の思想が深く反映されており、単に茶を点てる場にとどまらず、精神性を重視した空間へと昇華されました。
また、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の茶室は、単なる室内空間の工夫にとどまらず、さまざまな機能性と美意識を融合させた合理的な設計が施され、その設計思想は、後の日本建築にも大きな影響を与えることとなります。
以下に『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が新しく茶室に取り入れた要素をご紹介します。
❙躙り口❙
「抛筌斎千宗易(利休)」は茶室に入る際には、大名や武士であっても帯刀を禁じ、「躙り口」 という狭い入口を通って中へ入ることを求めました。この構造によって、どんなに高い身分の者であっても、頭を低くし、謙虚な気持ちで茶室に入らなければなりません。
これは、亭主と客が平等な立場で向き合うための工夫であり、茶の湯の場においては、身分や貧富の差を超えた「心の交流」が最も大切であることを示しています。
「躙り口」は単なる構造的な工夫ではなく、茶の湯の根幹となる「敬意」と「謙虚さ」を体現する重要な要素となりました。
❚ 窓 ❚
「抛筌斎千宗易(利休)」以前の茶室では、光の採り方は縁側に設けられた障子を通して行われる「一方光線」が主流でした。これは、『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502年-1555年)』の時代まで続いていたものです。
しかし「抛筌斎千宗易(利休)」は茶室の内壁を土壁で囲み、必要な場所に「窓」を開けるという手法を取り入れました。これにより、茶室内の光を自在に調整し、必要な部分だけを照らし、逆に陰影を生かすことで、茶室全体の雰囲気を演出できるようになりました。
また「天窓」や「風炉先窓」といった新たな採光技術を取り入れることで、自然光の効果的な活用が可能になり、茶室の内観に奥行きと落ち着きをもたらしました。これらの技法は、後の数寄屋建築や日本建築にも影響を与え、「光をデザインする」という考え方の礎となりました。
❚ 露 地 ❚
それまでの露地は茶室へつながる単なる通路であったが「抛筌斎千宗易(利休)」はこの露地を「もてなしの空間」として再構築しました。
露地には、自然の景観と調和した石畳や蹲踞が配置され、客人が茶室へと向かうまでの間に心を落ち着け、茶の湯の世界へと意識を切り替えるための場となりました。また、亭主の心遣いが随所に施された露地は、訪れる客人にとって「待つ時間」もまた茶の湯の一部であることを示しました。
この工夫により、茶の湯は「茶を点てる行為」だけでなく、客が訪れ、もてなしを受け、共に茶を喫し、退出するまでのすべての時間を「一期一会」の体験として捉える「総合芸術」へと発展したのです。
「抛筌斎千宗易(利休)」が生み出した草庵茶室の思想は、単なる茶室の設計を超えて、日本建築全体に多大な影響を与えました。狭い空間を活かし、美と機能を凝縮する設計思想が生まれたことで、わずかな空間の中に最大限の工夫を施す日本建築の特徴が確立されました。
「抛筌斎千宗易(利休)」が追求した「美」は、現代においても日本の美意識の根幹として受け継がれ、茶の湯の世界にとどまらず、日本の文化そのものを形成する要素として、今もなお生き続けています。
❙利休の茶室 ~ 国宝「待庵」 ~
国宝茶室『待庵』は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院『妙喜庵』内にのこる日本最古の茶室です。現存する中で『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』が携わったことが確実にわかる唯一の茶室であり、昭和二十六年(1951年)、国宝に指定された貴重な文化財です。
日本最古の茶室であり現代において一般的な『躙り口』がある『小間席』の原型であり数寄屋建築の原型とされ現存する茶室の中で唯一「抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)」が携わったことがわかる茶室である。
❙寺号❙
『妙喜庵』の寺号は、中国宋代の『[臨済宗僧]大慧宗杲(1089年-1163年)』の庵号『妙喜』に由来するとされ、さらにこの地には連歌の祖でとされる『[連歌師]山崎宗鑑(1465年-1554年)』が住んでいたとの説がある。
(※ただし『[連歌師]山崎宗鑑』の旧居は大阪府三島郡島本町にある関大明神社前が有力とされ、その詳細は不明)
❙歴史❙
天正十年(1582年)、天下分け目の合戦といわれる『天王山(山崎)の合戦』の後、『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』は山崎の天王山に築城を開始しました。
この際に「抛筌斎千宗易(利休)」を招いて、城下に「二畳隅炉」の茶室を建てさせたと伝えられています。
その後、慶長年代(1596年-1615年)頃に解体し、『妙喜庵』に移築されたと考えられています。
また慶長十一年(1606年)に描かれた『宝積寺絵図』には、今日の「待庵」の位置に囲いの書き込みがあり、この頃にはすでに現在地に移築されていた可能性が高いとされています。
さらに同図には『妙喜庵』の西方、現在の島本町の山崎宗鑑旧居跡付近に『宗鑑やしき』そして『利休』の記載も見られます。
このことから、一時期「抛筌斎千宗易(利休)」がこの付近に住んでいた可能性があり、『待庵』がこの利休屋敷から移築され可能性も考えられますが詳細は不明とされています。
❙国宝❙
『待庵』は日本国内において国宝に指定されている三つの茶室の内の一室で、以下の二室とともに、日本の茶室建築の歴史において極めて重要な存在です。
[如庵]
愛知県犬山市・有楽苑
昭和十一年(1936年)に重要文化財(旧国宝)に認定。
織田信長の弟『織田有楽斎(1548年-1622年)』が建てたとされる二畳半台目の茶室。
[密庵]
京都府・大徳寺/龍光院
昭和三十六年(1961年)に龍光院書院全体として国宝に指定。
『遠州流創始者/小堀遠州(1579年-1647年)』ゆかりの四畳半台目の茶室。
「待庵」は、日本における「小間席」の原型とされ、現代の茶室に見られる「躙り口」を備えた構造の起源ともなっています。この茶室の設計思想は、後の数寄屋建築の基礎を築き、日本建築全体に多大な影響を与えました。
また、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が徹底的に追求した「わび茶」の精神が反映された茶室として、その簡素さ、機能美、空間の工夫が今日でも高く評価されています。
茶の湯の歴史を語る上で、「待庵」は単なる茶室建築を超えた、日本の美意識を象徴する存在として、今なお重要な役割を果たしています。
❙利休の茶室 ~ 黄金の茶室 ~
「黄金の茶室」とは『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536年-1598年)』の命により設計された豪奢な茶室であり、茶の湯の歴史においても特異な存在です。
この茶室は組立式の平三畳の構造を持つことで、必要に応じて運搬・設営が可能な特徴を備えていました。一般的に無駄をできるだけ排除してきた「わび茶」を唱えた「抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)」とは対極的なものと思われがちですが、この茶室の建設には千利休も関与したと伝えられています。
❙秀吉と黄金の茶室❙
天正十四年(1586年)一月、『[関白/太閤]豊臣秀吉』が年頭の参内を行った際、この「黄金の茶室」を御所に運び込み、『百六代天皇/正親町天皇(1517年-1593年)』に披露したと伝えられています。この茶室は、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の権力と財力を誇示する象徴的な存在であり、『[関白/太閤]豊臣秀吉』が目指した「華麗なる茶の湯」の一端を示すものでもありました。
『[関白/太閤]豊臣秀吉』は茶の湯を単なる文化ではなく、政治的な道具としても利用し、黄金の茶室はその最たる例といえます。
❙利休と黄金の茶室❙
黄金に輝く茶室は「抛筌斎千宗易(利休)」が提唱してきた「わび茶」の精神とは正反対のものでした。
「抛筌斎千宗易(利休)」の茶の湯は華美を排し、徹底的に無駄を省いた質素な美を追求するものであり、黄金に彩られたこの茶室の設計に携わることには、大きな葛藤があったと推測されます。
明確な史料は存在しませんが、当時の状況を鑑みると、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の茶室の設計においてを「抛筌斎千宗易(利休)」が関与しないことは考えにくく、黄金の茶室の設計にも何らかの形で関与していた可能性が高いとされています。しかし、この黄金の茶室の存在は、二人の間に「茶の湯の在り方」に対する価値観のズレを生じさせる要因の一つとなったと考えられます。
黄金の茶室そのものが「抛筌斎千宗易(利休)」の死に直接関わったわけではありませんが、『[関白/太閤]豊臣秀吉』の「華麗なる茶の湯」と、「抛筌斎千宗易(利休)」が追求した「わび茶」の思想は根本的に相容れないものであり、その価値観の違いが次第に両者の関係に影を落としたの明らかである。
❙黄金の茶室の再現❙
黄金の茶室はその後、歴史の中で失われましたが、以下のように近年になっていくつかの再現が試みられています。
▶1993年/名古屋城(名古屋市)
名古屋城本丸御殿の復元プロジェクトの一環として再現
▶2011年/大阪城(大阪市)
大阪城天守閣に再現モデルを展示
▶2015年/MOA美術館(静岡県熱海市)
桃山時代の技法を用いて復元
いずれも史料をもとに可能な限り当時の姿を再現したものとされ、現代においても黄金の茶室の存在感と歴史的意義を伝えています。
黄金の茶室は、『[関白/太閤]豊臣秀吉』が茶の湯を政治的に利用し、「権力と美の融合」 を図った象徴的な空間でした。その豪華さは、「抛筌斎千宗易(利休)」のわび茶とは対極にあるように思えますが、茶の湯の持つ多様性を示す一例でもあります。
「抛筌斎千宗易(利休)」が追求した「簡素の美」と、『[関白/太閤]豊臣秀吉』が求めた「権威の美」。この二つが対立することで、日本の茶の湯文化はさらに広がり、深みを増していきました。
現代においても、「黄金の茶室」は日本の美意識の多様性を象徴する存在として語り継がれています。