
千利休宗易
01.利休の出自
❙はじめに ~ 利休の出自 ~
「千利休宗易」では『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の出自からゆかりの人々まで、全10回にわたり解説し、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』が茶の湯に遺した教えや功績を詳しくご紹介します。
「利休の出自」では、『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の出自について紐解きその背景を探ります。
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)』の出自を辿ることは、後に茶の湯の世界に身を投じ、独自の美意識を確立するに至った過程を理解する上で欠かせない要素となります。
それでは、「利休の出自」について詳しく見ていきましょう。
❙利休の出自 ~ 利休の祖 ~
『抛筌斎千宗易(利休)(1522年-1591年)』の祖父は『[祖父]道悦(田中千阿弥)(生没享年不詳)』といい、千家の家譜『千家系譜』によれば「里見太郎義俊二男、田中五郎末孫、生国城州、東山慈照院義政公同朋相勤」とされている。
また『千利休由緒書』には
「利休先祖之儀ハ、代々足利公方家ニ而御同朋ニ而御座候。先祖より田中氏に而御座候。就中、利休祖父ハ田中千阿弥〔初メ専阿弥ト号ス、太祖ハ里見太郎義俊二男、田中義清と申末孫也と云、〕と申候而、東山公方慈照院義政公の御同朋ニ而御座候、(中略)千阿弥発心致し泉州堺江閑居仕候、其子与兵衛ハ田中之名字を改メ父之名ノ千を取り苗字ニ致し、与兵衛と申候而堺之今市町ニ而商家ニ罷成候、其子千与四郎と申候而今市町ニ而商売仕候所茶道ヲ好キ候。」
「利休の先祖は代々足利公方家の同朋衆であり、田中氏を称していた。特に、利休の祖父は田中千阿弥(初めは専阿弥と号す)といい、太祖は里見太郎義俊二男、田中義清の末孫であり、東山公方・慈照院義政公の同朋衆であった。千阿弥は発心して泉州堺へ閑居し、その子与兵衛は田中の名字を改め、父の名の『千』を取って苗字とし、堺の今市町で商家を営んだ。その子・千与四郎が今市町で商売をしながら茶道を好んだ」
と記されている。
しかし、この記述には以下の不合理を呈する事柄もうまれている
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当時『阿弥』の号は宗門徒に広く用いられており、必ずしも同朋衆に結びつくものではない。
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『千利休由緒書』は『表千家四代/逢源斎江岑宗左(1613年-1672年)』の書であり、他に裏付けとなる史料が存在しない。
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『室町幕府八代将軍/足利義政(1436年-1490年)』の同朋衆であった史料が無い。
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時代の齟齬から『[祖父]道悦(田中千阿弥)(生没享年不詳)』は祖父ではなく曾祖父になる。
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『[豪商/茶人]山上宗二(1544年-1590年)』の『山上宗二記』には利休のことを『田中宗易』、利休の長男を『田中紹安(後の道安)』と記しており利休の晩年に至っても姓としては『田中』の方が通っていたと考えられ父の代に『田中』姓を『千』姓に代えたとの説は疑問視され『千』は田中家の屋号ではないかという見解もある。
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千家は朝鮮系の家ではないかという説もあるが、仮に帰化人であったとしても秀吉の朝鮮出兵の際に息子の千少庵が「千」姓に戻すのは不自然とされる。
以上のように『千家系譜』『千利休由緒書』以外に確固たる史料が存在しないため、千利休の出自には未解明の部分が多く、歴史的なミステリーとして残されている。
一方『[祖父]道悦(田中千阿弥)(生没享年不詳)』の在世期間に関しては七回忌供養の際に『宗易』の偈がみられ、その偈を利休が賦したことから天文十年(1541)前後までの在世が知られる。
また利休の父は与兵衛といい。その諡号は一忠了専。
天文九年(1540年)、父『[父]田中与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』の三十三回忌法要が『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490年-1568)年』を導師として南宗寺において催されている。
このように『[祖父]道悦(田中千阿弥)』『[父]田中与兵衛(一忠了専)』ともに歴史史料が限られ、未だ研究が進められているが、多くの点で疑問が残る。
確定的な系譜を示すものが少ないため、今後の歴史研究の進展が待たれる。
❙利休の出自 ~ 出自 ~
❚ 生 没 年 ❚
[生年] 大永二年(1522)
[没年] 天正十九年(1591) 二月二十八日
[享年] 七十歳
❚ 出 生 ❚
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『[祖父]道悦(田中千阿弥)(生没享年不詳)』の孫
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『[父]田中与兵衛(一忠了専)(生年不詳-1540)』の子
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『[母]月岑妙珎(生没享年不詳)』の子
❚ 名 ❚
[本姓] 田中
[幼名] 与四郎
[名] 宗易
[一字名] 易
[号] 抛筌斎
[居士号] 利休
❚ 兄 弟 ❚
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『[兄(異母兄弟)]康隆(生没享年不詳)』の弟
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『[弟]千(奈良屋)宗把(生没享年不詳)』の兄
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『[弟]水落宗恵(生没享年不詳)』の兄
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『[妹]千宗円(『久田家元祖/久田実房(生没享年不詳)』の室)』の兄
❚ 室 ❚
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『[先妻]宝心妙樹(生年不詳-1577)』
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『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600)』
❚ 子 (先妻) ❚
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『[長男(先妻)]千(眠翁)道安(1546-1607)』の父
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『[長女]不明(生没享年不詳)』(『[弟]千宗把(生没享年不詳)』の子『[甥]千紹二(生没享年不詳)』の室)の父
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『[次女]不明(生没享年不詳)』(『[茶人]万代屋宗安(生年不詳-1594)』の室)の父
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『[三女]三(生没享年不詳)』(『[茶人]石橋良叱(生没享年不詳)』の室)の父
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『[四女]吟(生没享年不詳)』(『[僧]円乗坊宗円(生没享年不詳)』の室)の父
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『[五女]不明(生没享年不詳)』(『魚屋与兵衛(生没享年不詳)』の室)の父
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『[六女]亀(喜室宗桂信女) (生年不詳-1587)』(『[養子]千少庵宗淳(1546-)』の室)の父
❚ 子 (後妻) ❚
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『[次男]宗林(生没享年不詳)』の父
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『[三男]宗幻(生没享年不詳)』の父
❚ 養 嗣 子 ❚
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『[後妻]千宗恩(生年不詳-1600)』の連れ子『[養子]千少庵宗淳(1546-1614)』の養父
❙利休の出自 ~ 師事 ~
❚ 師 事 ❚
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[茶道]『[豪商/茶人]武野紹鷗(1502-1555)』
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[茶匠]『北向道陳(1504-1562)』
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[参禅]『大徳寺九十世/大林宗套(1480-1568)』
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[参禅]『大徳寺百七世/笑嶺宗訢(1490-1568)』
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[参禅]『大徳寺百十七世/古渓宗陳(1532-1597)』
❙利休の出自 ~ 門下 ~
❚ 門 下 ❚
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『[豪商/茶人]山上宗二(1544-1590)』
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『[関白]豊臣秀次(1568-1595)』
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『[武将]木村重茲(生年不詳-1595)
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『[関白/太閤]豊臣秀吉(1536-1598)』
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『[武将/利休門三人衆/利休七哲]肥後細川家初代/細川(三斎)忠興(1563-1646)』
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『[武将/利休門三人衆/利休七哲]芝山(監物)宗綱(生没享年不詳)』
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『[武将/利休門三人衆/利休七哲]蒲生氏郷(1556-1595)』
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『[大名/利休七哲]古田(織部)重然(1544-1615)』
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『[武将/利休七哲]瀬田(掃部)正忠(1548-1595)』
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『[武将/利休七哲]高山(右近)重友(1552-1615)』
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『[武将/利休七哲]牧村(兵部)利貞(1546-1593)』
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『[大名/利休十哲]荒木村重(1535-1586)』
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『[大名/利休十哲]有楽流開祖/織田(有楽斎)長益(1548-1622)』
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『[商人/茶人]神谷宗堪(1551-1635)』
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『[茶匠]藪内流開祖/藪内(剣仲)紹智(1536-1627)』
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『[僧/茶人]南坊宗啓(生没享年不詳)』
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初代田中長次郎
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宗慶
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盛阿弥紹甫
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篠井秀次
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記三
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余三
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羽田五郎
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藤重藤巌
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甫竹
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久以
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長以
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半入
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初代与二郎
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西村道仁